TVのNHKで、海の魚のチヌと交流する男性のニュースが出た。海で素潜りを趣味としていた男性が10年前に貝をハンマーでたたきながら魚に呼びかけていたら、一匹のチヌがそれに応じて寄ってきて、以来、そのチヌと遊ぶうちに、他のチヌも寄ってきて、海中に輪をくぐらせたり餌付けをしたりして男性はチヌと遊んでいるらしい。

チヌをwikipediaで調べても何年生きるのかはわからないが、捕食されなければ10年以上は生きるようだ。

キリスト教でよく魚が出てくる。それは人間の食べ物としてだ。山上の垂訓でも、お腹を減らした聴衆たちにパンと魚がふるまわれた。
どっかの湖で船から網を下すと魚がいっぱい獲れたとも言う。

イエスは魚に意識がないと思っているのだろうか?動物は食糧やいけにえになって当然だというのだろうか?

動物に意識があるのかどうかはわからない。むしろ、そんなことは関係ないのかもしれない。アブラハムは神に息子をいけにえに出すよう言われたくらいだし。

キリスト教では羊がよく出てくる。イエスのことは人類という羊を導く羊飼いとされている。
羊は、羊毛を利用されたり、あるいは羊肉として人に食される。また、神へのささげものとして生贄にされることも多い。
羊は首を切られるときに他の家畜と違って泣きわめかないと聞いたことがある・・・

悲しいことだが、生贄にされることを厭わない者が神に対して従順な者なのかもしれない。

キリスト教では死を不幸とは思っていない。むしろ昇天できる幸福だと思っている。

たしかに、苦しみの多いこの世で生きることは不幸だ、ある意味、地獄だ。

アダムとイブの原罪は、こういった神への献身・従順さを忘れてしまったことなのかもしれない・・・


※注意

 自爆テロや自殺など積極的破壊行為を推奨しているわけではありません。自分の身に降りかかる困難に対しては自分の願望だけで抗うのではなく受容することも大切なのかもしれないと思っただけです。