前回、ブログを書いてから、具体的現実的に考えようとしたんですが、結局、駄目でした・・・毎日毎日考えてもやはり難しい・・・手がかりさえつかめない。



とりあえず、メモみたいなのをそのままブログにUpします。本当にメモなので、支離滅裂、結論なしですが・・・



過去を振り返ると言っても、過去を悔やむことではない。
あの時あんなことをしなければよかったとか、ああすればよかったとか、そういうのは良くない。

過去を否定するのは良くない。
起きてしまったという事実は変わらないし、それは運命だったのかもしれないが、運命じゃなくても、自分の落ち度というよりも、神からの恵みととらえて感謝すべきなのだ。

もちろん、自分の罪深さが過ちを犯してしまったときを振り返る時、自分の罪を良しとすることはできない。しかし、そういう自分の罪深いさまを自覚し、言い訳することなく真摯に受け止め、それを認識させてくれた神の計らいに感謝すべきなのだ。

何故こんなありふれた説教をしているのか?

それは、人間は過去を反省し、未来につなげようとする。つまり、主眼はあくまで未来なのだ。未来を良くしようとして過去を分析している。
しかし、それは、あくまでも、未来をどうこうしようとしているだけで、過去を本当の意味で振り返っているわけではないのだ。

例えば、あの時ああしてれば良かったと思ってるうちに、いや、今でもやれば間に合うとひらめき、そして実行し、成功を勝ち取る。
こんなのは何の意味もないのだ!

それよりも、あの時あんな失敗をしてしまった。それは自分の至らなさが原因なのだと自覚する。そんな未熟な自分をしっかり受け止める。もちろん反省はするが、それよりもまず、自分がダメな人間だということ、そして、それがその前から決まっていたことを振り返る。そして、それは何故なのか考える。以前から決まっていた通りに自分は動いている。それには意味がある(この段階の推論の仕方は無理があるだろうが、ここでは、横に置いておく)。その時も、今も、計画通りに進んでいて、何一つ問題はないのだ。現在も未来も変える必要はない。過去へ遡り、遡り、ついには、創造主なる神の御旨・御計画・恵みだということに気づかされる。神の恵みに感謝する・・・

悪い事を、正当化するつもりも、無視するつもりもない。人間は原罪を持っているし、それを悔い改めなければいけない。しかし、それだけでは、肝心なことが抜けてしまう。そう、全てを神に感謝するということだ。

例えば、学校でいじめられているとしよう。それを振り返る。自分の何がいけなかったのか?何も悪くないように見えても何か自分の至らなさがあったかもしれない。あるいは、ほんとに何も自分に非はないかも知れない。そうしたら、そういう環境にいる自分の不運のせいかもしれない(本当に自分には非はないと断言するのは傲慢の罪になるかもしれない・・・)。しかし、何にしろ、そういう状況で自分が存在することに神の計画を感じ、神に感謝すべきなのかもしれない。

何の罪もなさそうな幼な子でさえ、8歳以降なら思慮分別がついて自分の罪を自覚する。そういう子に不運があった時に、その子が自責的になるかどうかだ。普通だったら、自分を責める。6歳未満の幼児でさえ、親に虐待されたら、親ではなく自分に何か間違いがあったんだろうと無意識に自然に考えるものだ。

天国では時間の概念が成り立たないかもしれない。すなわち、過去にも行けるし、未来にも行ける。今が過去であり、未来でもあり、一瞬であり、永遠でもあるのだ・・・そんな世界では過去も未来も意味がなくなってくる・・・今がすでに過去なのだ。過去に亡くした家族が天国にはいる。それは過去の家族・・・
過去を振り返れないような人間は天国にも行けないかもしれない。天国に行っても過去と向き合えなければ、天国ではうまくやっていけない。

今のこの世では、未来へ向けて前向きに積極的に活動している。もちろん、今この瞬間を楽しんでいることと同じレベルだ。過去のことを振り返りもせず、ただ目の前にあることに夢中になる。要するに、過去を中心に考えてない。過ぎ去ったことは分析の手段の一つに過ぎないと考えている。

しかし、本当に大切なのことは、過去なのだ。過去は未来に向けての材料ではなく、過去そのものが目的なのだ。

人間は自分で未来を切り開いていると錯覚している。しかし、人間の未来は神の全能なる計画ですでに決められている。人間が自由にできるのは、過去を振り返るかどうかだけなのだ。

かといって、将来の為にいろいろ勉強したり就職活動したりすることは間違っていない。いや、むしろ大事なことだ・・・しかし、それは一番に大事なことではないのだ。

マルタのように、神から見れば多くのことに煩わされているものの、マリアのように、一番優先させるべきことをやるのが大切なのだ。

いろいろやるべきことは多い。しかし、その中でマリアは選択した。一番大事なことの方を。

それは自分の過去を見ること。マリアだけじゃなく、全ての人にとって神とは昔の自分の姿だ。神から生まれ出た人間は神を忘れてはならない・・・

過去を回想しあの時こうしておけば今頃こうなって幸せになっていたなどと空想したり、明日目覚めたら自分に超能力が身についてて何でもできるようになるだとと空想したり、そういうのは虚しい・・・

現在や未来がどうなろうと、それよりも、起きてしまった過去のことが人間にとっては重要なのだと思う。未来に幸せになる自分を想像しても、結局それで何?ということになってしまう。しかし、過去の出来事を思い起こして、そういう事実を深く深く認め受け入れた時、それがかけがえのない出来事だったことを感慨深く内省できる。

たとえば、受験勉強をしていて、一生懸命勉強していたが、結局希望校には落ちてしまった場合。結果はダメでも、過程がしっかりしていれば、後で感慨深く思い出せる。やれるだけのことはしたんだと。もちろん、滑り止めで入った学校でいじめに遭い、散々な目に遭っても、それでもそれは仕方のないことだし、自分は頑張ったと誇りたい・・・

何のために生きるのか?と未来に向けた問いは、だからこそ、問われてはいけないものなのかもしれない。将来の結果を求めることは、むなしいから・・・
未来は自分ではどうすることもできないとしよう。しかし、感じ・考えるのは、自分で何とかできる。
未来をどうこうしようとするのではなく、過去や現在をしっかり感じ受け入れ、想う・・・
何のために生きるかはわからないが、とにかく、すでにもう生まれてきてしまっている。その事実、過去を受け止め、そして、それを考える。それがマイナスからのスタートなのだ。

『では、なぜ、存在しているのか?なぜ、感じているのか?』
こんなことを考えるのは、未来に向けての考えが根底にある。つまり、過去がどうだろうと今が楽しかろうと一寸先が闇かもしれない将来に向けて悪い方向に歩んでたら意味がないという考えからだ。もちろん、『何のために生きているのか?何で存在しているのか?人類はやがては屠殺される家畜のような存在かもしれないのに・・・』と考えることを、現実の生活のあれやこれやを考えるのと同じくらい真剣に取り組むのは合理的ではある。

しかし、未来に向けて問うていっても合わせ鏡の中に映る自分の連続する姿を見るようで、きりがない、答えはない・・・過去に向けて問うていっても


伝道の書第3章11節
『神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。』

未来の未来の未来・・・と言った感じで先先を想像しても、終焉はわからない。幸せになっても、その先は一体どうなのか?わからない。永遠に幸せであり続けること、それ自体が、退屈になるかもしれない・・・
過去のさらに過去、といった感じで