今夜、彼女と逢う約束を取り付けて、俺は電話を切った。
突然だが、今日は店を休もう。
そう決めてVIPルームを出ると、まるで立ち聞きしていたかのような格好の慶喜がドアの前に立っていた。
「ちょ、あんさん・・・聞いてはったんどすか・・・えらいお行儀のよろしいことで」
「いや、なぁんにも聞こえなかったよ」
「はっ、しょうがないお人や、まったく」
後ろ手で重厚なドアを閉め、ホールの方へ向かおうとして慶喜とすれ違った時。
「で・・・今日は休むのかい?」
ボソっと俺の耳元で言った。
「っ!!やっぱり聞いてはったんやな!?」
かっと顔に熱が集まり、つい声を荒げる。
「あはっ。いいよ、休んで」
慶喜は背を向けて、右手をひらひらと振りながらホールの方へ消えて行った。
「・・・ったく・・・おおきに」
俺はその背中に向かって、聞こえないぐらいの小声で礼を言った。
そして俺は、自分の顧客達に「本日は急遽お休みをいただく事になりました」という旨を知らせるメールを送ってから店を出た。
暗い店内から外に出ると、昼間の歌舞伎町の景色が「さっき」とは、いや、「東京に出て来てからずっと」の今までとは全く景色にさえ見えた。
この街で働く事を決めて京都から引っ越してきて、慶喜と同じ店で働いて。
そして彼の独立に付き合って一緒に店を辞めた。
特にこれと言って、個人的な目標や野望があった訳では無かった。
いつからかなんとなく、慶喜が目指しているものをバックアップする、というポジションを自然と選んでいたようにも思う。
まるで、そうする為に自分がここに居るかのように、何の疑問も抱く事もなく。
小さい頃から社会や学校のルールだけでなく、反対を押し切ってホストになった事以外は家の規律も破る事なく暮らして来た自分が、仕事を個人的な理由で休むという自分勝手な行動をとった事が原因か。
見慣れた景色も色も匂いも音も、空気すら、まるで違うものに感じている。
店の前に立ったまま、視界が外の明るさに順応するまで待って、歩きだした。
(なんだか、初恋を知った少女、みたいだな・・・)
自虐的な例えと己の単純さに思わず苦笑しながら、ふわふわと雲の上を歩く様な軽い足取りで通りに出て、拾ったタクシーに乗って帰路へついた。
マンションについて、すぐにバスルームへ向かう。
出勤する前にも浴びたばかりだったが、いつも帰宅してすぐシャワーを浴びるのが習慣になっているせいか、そのままでいるのも居心地が悪いというか気持ちが悪い気がしていた。
さっと汗と埃を流すだけの水浴び程度で済ませて、バスローブをはおってリビングに戻った。
約束した時間まではまだ5時間近くもあった。
(あ、そうか・・・そうしようか・・・)
ふと思い立って、キッチンの戸棚にしまってあったものを取り出した。
しばらく手入れもしていなかったそれらを丁寧に洗う。
一通り洗い終えると、コートスタンドに掛けたままのジャケットから携帯を取り出した。
彼女に待ち合わせ場所を変更する連絡をするためだ。
≪今夜、22時に近くの○○○公園の正面入り口まで迎えに行きます。それから・・・≫
メールを打って、送信完了の表示を見届けて携帯をテーブルに置いた。
(あ、秋斉さんからだっ!!)
私は母に頼まれた通り、家に尋ねて来ていたおばあちゃんと近所の和食屋へ夕飯を食べに来ていた。
テーブルの上に置いた携帯画面にメール受信の表示。
数秒間「秋斉さん」と出ていた文字は、画面のブラックアウトと同時に消えた。
食事中に携帯をいじるのはマナーが悪いと怒られそうだから、すぐに内容を確認したい衝動を抑えて、黒い画面になった携帯電話からおばあちゃんの方へと視線を戻す。
「ふふふ、いいよ、別に。気になるんだろう?」
おばあちゃんは私の気持ちを察したのか、笑ってそう言った。
「えっ?・・・う、ううん・・・後で平気」
にっこりと笑い返すと
「そんなにも名残惜しそうな顔で画面見てたくせして。いいのよ」
と、上品な所作でくすくすと笑う。
70歳をとうに超えているのに嚇灼としていて、いつもきちんと身だしなみに気をつけていて、凛としていて、小さいころから甘やかすだけでなく悪い事もちゃんと叱ってくれるおばあちゃん。
この場にお父さんやお母さんが居たら、きっと今みたいに言ってはくれなかっただろうなと思うと胸がじん、と熱くなった。
「おばあちゃん・・・ありがとう」
私は持っていたお箸を丁寧に箸置きに乗せて、傍らの携帯電話を取った。
秋斉さんからのメールは、約束の時間に近くの公園まで迎えに行くという内容のものだった。
当然、顔文字どころか絵文字もない簡素な文面。
それでも、最後の一文に胸が強くしめつけられる。
≪・・・それから、今夜は少し冷えそうです、温かい格好で出て来て下さい≫
「・・・好きな人から、かい?」
不意におばあちゃんに聞かれて、視線を彷徨わせつつ返す言葉を探していると
「ふふふっ、いいねぇ。いつか、ちゃあんとおばあちゃんに紹介するんだよ?」
そう言って小鉢の中のおひたしを少し摘まんで、小さな口へと運んだ。
21時少し前、そろそろ準備をして彼女を迎えに行こうかとウォークインクローゼットの扉を開ける。
壁一面、パズルの様にぴったりとはまった桐箪笥から着物を取り出しながら、昼間洋服姿の自分を見て驚いた彼女の顔を思い出した。
(ひょっとして、洋服の方が良いか・・・?)
一瞬そう思って引き出しを戻しかける。
でも、和装は自分の中での勝負服のようなものだったし、その後の流れも考えてやはり着物の方が良いだろうと考え直して畳紙(たとうし)を両手で持ち上げる。
綺麗な藤色の着物を取り出して、香炉のすぐそばに置いてある衣桁(いこう)に掛ける。
香炉からは薄く細い煙が立ち上り、藤色の着物にうっすらと侍従の香りを浸みこませていく。
着物をそのまま少し放置して、バスルームで髪を整えたり顧客からのメールに返信を送ったりして21時半頃、ようやく着替えて地下の駐車場へと降りた。
(わっ、ホントにちょっと寒いかも・・・)
秋斉さんに言われた通り、トレンチコートの襟元に大き目のストールをぐるっと巻き付けた格好で防寒対策をし、家を出た。
花冷えの季節だなぁ、とつくづくと思いながら待ち合わせ場所の公園へと足を向ける。
ふと、花冷えという言葉から秋斉さんを連想させて、緊張がさらに高まってきてしまった。
なんとなく、夜桜のような人。
第一印象からずっと彼に対して持っていたイメージだった。
春の月灯り中で、儚い刹那的な美しさを湛える桜のような、透き通る薄桃色の肌。
昼間に茶道教室でチラっと見えた彼の首筋を思い出して、今度は耳まで熱くなり始める。
(やだ・・・何考えてるんだろ、私・・・)
首を竦めながら、公園への道を小走りで進んだ。
すると、公園の正面入り口にあたる角に黒い車が停車していた。
このあたりは閑静な住宅街だから、こんな時間に停車している車を見ると、つい警戒してしまうのが癖だった。
避けるようにして距離を取り、歩調を早めて車を通り越そうとした時。
ガチャッ
運転席のドアが開いた。
「こんばんは」
車から出て来たのは、秋斉さんだった。
「きゃっ・・・あっ、秋斉さんっ!」
「あ、すんまへん・・・びっくりさせてしもたね」
「い、いえ・・・私こそ、変な声出してごめんなさい」
「そら、こないな場所で夜に車停まってたら、怪しいよなぁ」
秋斉さんはくすっと小さく笑って、どうぞと助手席のドアを開けた。
「ありがとうございます」
(あ、着物、だ・・・)
私が助手席のシートに座ると、近隣の迷惑にならないよう、極力音が大きくならない配慮をした動作でゆっくりとドアを閉めて自分も運転席に乗り込んだ。
バタンッ
秋斉さんがシートべルトを締めるのを見て、自分もそれに倣う。
エンジンは切られていたから、車内はしん、と静かだった。
「あっ、あの・・・着物、なんですね・・・運転、しづらくないですか?」
静寂に耐えきれずに言った後、すっごく間抜けな事を聞いてしまったと後悔する。
けれど秋斉さんは柔らかく微笑んで、
「そんな事あらしまへん、もう慣れたもんどす」
チラッと自分の足元に視線を落として、再び私の顔を見る。
「そ、そうですか・・・は、はは」
色んな意味で恥ずかしくなって、首元のストールに埋めるように顔を隠した。
「ほな、行きまひょか」
何処へ?
という私の返事も待つ事なく、エンジンを掛けられた車は静かに住宅街を後にした――――
≪秋斉編12へ続く・・・≫