「ねえ、お母さん」
「ん、なぁに?」
母のお点前を頂いた後、事務所に移動した私達はソファに向かい合って座っていた。
「あの、今日いた和服の男の人って・・・」
「あぁ、藍屋先生の事?」
「藍屋・・・先生?」
私が思い切りきょとんとした表情になったから、それを見た母は不思議そうな顔をした。
「えっ?違う人の事かしら?」
「京弁の」
「そう、やっぱり藍屋先生の事ね。珍しい名字よね・・・彼がどうかした?」
「先生・・・なんだ?」
「ええ、もう半年以上経つかしら」
私は少なくとも月に1度はここに立ち寄っているはずなのに、どうして今まで逢わなかったんだろう?
意識していなかったから気付かなかっただけ・・・?
ぐるぐると考えを巡らせていると
「週に2、3日は昼間から夕方前まで講師で入ってもらってるわよ」
「へ、へえ・・・そうなんだ」
「あら、見かけたの初めてだった?」
「うん・・・」
なんとなく返事しながら菓子器の中のクッキーをつまみあげ、口の中へ運んだ。
「先生がこられてから何日目かにちょうどあなたの話になってね、だからてっきりもうその時に会ったのかと思ってたわ」
「へっ?私の話?」
思いがけない母の言葉で、クッキーを口から落としてしまった。
「あらやだ、行儀の悪い」
母は、ソファ汚さないでねと言ってくすっと笑った。
「そうよ、先生にあなたの事“生徒さんですか”って聞かれたけどね・・・ああ、確かおばあさまから預かった荷物をあなたが持って来てくれた時だったわね」
半年前の事だけど、ちゃんと覚えていた。
おばあちゃんから新しい茶器をここまで届ける用事を頼まれた日だった。
桐の箱に入った茶器が紫の風呂敷に包まれていて、意外と重かった事を思い出した。
(でもお店で会った時は全く覚えていない様子、だったよね・・・)
うーん、と頭を捻っていると
「なぁに?先生がどうかしたの?」
母が首を傾げてこちらを伺っている。
「うっ、ううん・・・なんでもないの。さっき、ここに尋ねてきてさ・・・初めて会った・・・から、ちょっと聞いてみただけだよ」
私は“初めて会った”と言って、慌てて取り繕う。
(さすがにホストクラブで接客してもらいました、なんて言えないよね)
「あ、じゃあ私先に帰ってるね」
「あら、そう。お母さんいつも通り、8時ぐらいになるから」
「わかった、じゃあね」
母に別れを告げて私は教室を出た。
自宅までの帰り道、私はなんとなく秋斉さんの事を考えていた。
(一度ここで見かけただけの私の事、覚えてるはずないか・・・)
T・GIRLで出逢った夜の事を思い出して、何故だか胸がチクっと痛んだ気がした。
(どうして私の質問をはぐらかしたんだろう?・・・ホストのお仕事の事、内緒だからとか?)
詮索しても仕方の無い事だけれど、秋斉さんに対する謎が頭から離れなかった。
それからまた数日後。
T・GIRLに初めて行った日から、花ちゃんは指名した匡さんと何度も連絡を取ったりして、次にお店に行く約束も取り付けているようだった。
彼に夢中になって熱を上げてる、という感じでもないし、花ちゃんは私の100倍もしっかりしているから特に心配はしていないけれど、あの日からなんとなく秋斉さんの事が気になっているままの私は、また一緒にお店に行こうと花ちゃんに誘われた時二つ返事でOKした。
花ちゃんと私がお店の入り口に着くと偶然オーナーの慶喜さんが居合わせ、そのまま私達を出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、こんばんは。本日のご指名は前回と同じく、匡と秋斉で宜しかったでしょうか?」
日を空けずに来店したからなのか、前回二人が指名したホストの事まできちんと把握しているなんてさすがだなぁと感心していると
「うちは匡さんでええけど・・・」
私が秋斉さんの接客で楽しんでいなかったのではないかと思っていた花ちゃんは、私の様子を伺うように顔を覗き込んできた。
「あ・・・秋斉さんで・・・お願いします」
花ちゃんに笑顔を返してから、そう慶喜さんに伝えると、にっこり笑って畏まりましたと私達を奥へと案内してくれた。
席に着くとすぐに匡さんと秋斉さんがやって来た。
「こんばんはー、花ちゃん来てくれてありがとー!」
匡さんは挨拶もそこそこに、すぐに花ちゃんの隣にぴったりとくっついて座った。
それとは対照的に、秋斉さんはおしとやかに腰を曲げ頭を下げた。
「こんばんは、ご指名おおきに」
そして、そっと上げた顔に微笑を湛えて私を見つめた。
「こ、こんばんは」
「お隣、失礼します」
そう言ってほほ笑んだ秋斉さんは、教室で会った時とはどこか違う「夜の顔」をしているように感じた。
それでも秋斉さんは笑顔で、前と変わらぬ態度のようだったから私の緊張はゆっくりと解けていった。
しばらくは4人で和やかに話していたけれど、お酒が進むにつれて花ちゃんと匡さんは二人の世界を作り始めてしまって、私は秋斉さんと二人きりで話をするしかなくなった。
こうしてお店に来て秋斉さんを指名してみたものの、いざとなると何を話して良いのか・・・私の思考回路は停止してしまった。
唯一の共通の話題を切出そうと口を開きかけた時、秋斉さんが一瞬早く声を出した。
「あんさん・・・またこないな店に来て、どういうつもりなんや?」
酷く冷静な声で言われ、一瞬にして目の前に氷の壁が広がり、私と秋斉さんの間を遮った。
「えっ・・・?」
「わての事、分かってここに来てはるんやろ?」
「そ、それは・・・」
強い拒絶をされたような気がして、秋斉さんの深い色の瞳に捉えられたまま私は固まってしまった。
すると、ゆっくりと薄く上品な形の唇が近づいて来て、私の肌に触れる寸前ですっと横に逸れた。
次の瞬間、耳元に低く囁かれる。
「もう二度と来るんじゃない」
ぞわっと背筋が凍って、私は声も出せず、瞬きすら出来なかった。
「わて、ちょっと失礼します」
花ちゃんや匡さんにも聞こえるように言って、秋斉さんはすっと立ち上がり席を離れて行った。
その綺麗に伸びた背中を見ながら、先日の出来事を思い出した。
私の質問をはぐらかす様に笑って、私に背を向けて廊下の方へ去ってゆく後ろ姿―――
急に胸のあたりにむかむかと何かが込み上げて来て、私は飲み過ぎて具合が悪くなったと花ちゃんに告げて1人で店を出た。
≪秋斉編3へ続く・・・≫