それから何日かして、慶喜さんは今まで以上に帰りが遅くなる事が増えた。
理由は「いま日本で一番注目されているホストクラブの若きオーナー」として、メディアで取り上げられる事が多くなったからだった。
店内やホスト達への取材をNGとする替わりに、彼が雑誌やTVに取り上げられるという宣伝効果で、お店はとても忙しくなっているらしい。
この宣伝方法は、彼の参謀的存在のホスト「秋斉さん」の案らしかったけど、目に見えて慶喜さんが疲労している事も増えたから、私は心配でたまらない気持で帰りを待つようになってしまった。
「ただいま」
いつものように、笑顔でリビングのドアを開けて慶喜さんが帰って来た。
「今日も可愛いよ、逢いたかった」
口癖のように囁き、そのすぐ後にふっと表情を陰らせて、はぁっと重い溜息をついた。
「慶喜さん・・・大丈夫、ですか?」
彼のジャケットに手をかけて、脱ぐのを手伝いながら尋ねると
「うん、さすがの俺も疲れちゃったよ・・・ま、こんなにもてはやされるのも今のうちだろうけどね」
色んな媒体に対して揶揄するように言って笑った。
でもそれ以上愚痴ったりする事はせずに、いつも通りに明るい冗談を言ったり、その日にお店で起きた楽しい話しなんかで私を和ませてくれる。
「あ、そうだ・・・」
突然、申し訳なさそうな顔をして慶喜さんが切り出した。
「明後日のオフの日、なんだけど」
今度の休みには、1泊2日で箱根の温泉に行こうと前から話していたから、私はきっとそれが都合付かなくなったのだろうと察知して、
「あ・・・大丈夫、ですよ・・・私なら」
本題に入る前にそう返した。
「え・・・っと、ご、ごめん・・・」
こうして2人きりの時間を与えられているだけで幸せなのだから、と自分に言い聞かせて私は首を横に振る。
「うん、大丈夫・・・気にしないで下さい」
本当はもっと彼と一緒にいたい。
ずっとずっと独り占めしていたい。
そんな思いを飲み込んで、笑顔を見せると
「そのかわり、今日も明日も、君が嫌と言うほど愛してあげる・・・」
綺麗な顔を寄せて、私の額に唇を当てた。
ふわっと漂ってきた慶喜さんの匂いを、色んな香水を混ぜたような甘ったるい匂いが邪魔をする。
「・・・っ」
ぎゅっと心臓を掴まれたように胸が苦しくなって、私は珍しく自分から彼の唇を奪った。
「ど、どうしたの?」
慶喜さんが焦って私の顔を覗き込む。
「・・・一緒にお風呂、入りませんか?」
照れながら言うと、彼は全てを理解したようにゆっくりと微笑んで、うんと頷いた。
そして彼が宣言した通り、その日の夜も次の日の夜も、私達は濃厚なひと時を過ごしたのだった。
オフの日の温泉旅行はダメになってしまったけれど、慶喜さんはいつも通り夜中の3時ごろに帰宅した。
その夜の事―――。
ただいまのキスの後、
「なんだか最近このマンションの入り口に怪しい男がうろうろしてるんだ」
慶喜さんは不安そうな顔で、何か変わった事はない?気をつけてね、と繰り返した。
「今も、居たんですか?」
「うん、チラっと見えたんだけど・・・すぐに逃げる様にどこかに行っちゃった」
「・・・こんな時間なのに」
「そうなんだよね、変だよね」
「でも、昼間に見かけた事ないんですけど・・・」
「そうなのかい?でも、もし見かけたら大声出すとか、部屋に逃げるとかしなくちゃダメだよ?ましてや、お菓子をあげるって言われても、絶対について行っちゃダメだからね?」
まるで小学生に言い聞かせるみたいな事を言うから、私は思わず噴き出してしまった。
「ちょっと、笑いごとじゃないよ。君に何かあったら僕は・・・」
急に真面目な表情になって、私の両手をぎゅっと握る。
「わ、わかりました。ちゃんと大声出すし、逃げます。お菓子くれるって言われてもついていきませんから」
見た目にそぐわぬその大きな手を握り返してほほ笑むと、慶喜さんは満足そうに目を細めて、うんうんと頷いた。
この時はまだ、まさかその時の不審者が彼の事をつけ狙っていたとは知る由もなかったのだが・・・。
数日後。
私が出勤前の慶喜さんの夕食の支度を始めた頃。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴って、
「あ、僕が出るよ」
慶喜さんはキッチンの中の私に言って立ち上がり、玄関に向かった。
少しすると、何かの包みを抱えてリビングに戻って来て
「なんか、先週隣に引っ越して来ましたって人が挨拶ですって、これくれたよ」
テーブルの上に包みを乗せた。
どうやら有名パティシエのお店の焼き菓子のようだった。
そういえば、先週あたりに昼間引っ越しのトラックを見かけたっけ、と思って私は止めていた手を再び動かして料理を再開させる。
「でも、なんか今の子・・・見た事ある気がするんだけどなぁ」
そんな事をぶつぶつ言いながら、慶喜さんは包紙を丁寧に開けてその中身がわかると
「わぁ、これ大好きなんだよね」
目を輝かせて、クッキーを包みから出して頬張った。
私が夕食に用意したパスタを綺麗にたいらげて、スーツ姿に着替えた慶喜さんが自室からリビングに戻って来た。
「いってらっしゃい」
いつもの事だったけど、こうやって慶喜さんを送り出すのがなんだか新婚さんみたいだなと思って、離れている時間は寂しいくせに頬が自然と緩んでしまう。
「なぁに?ニヤニヤしちゃってさ」
私の頬を軽くつついて不思議そうな顔をする。
「ううん、なんでもないです・・・」
思っていた事をそのまま言うのが恥ずかしくて少し顔を赤らめて俯いていると、顎をすっと持ち上げられて、目を閉じた慶喜さんの顔が近づいてきた。
女の子の私から見ても、閉じた目から綺麗に伸びた睫毛は羨ましい程長く、少し微笑んだ様に弧を描いた唇は形が良くて。
見惚れたまま、唇が重なった。
最初は挨拶程度に触れ合っていたはずのキスが、吐息を漏らす暇も与えられず、いつもベッドの中で交わしている本気のキスに変わってゆく。
私を追い詰める様に、何度も角度を変えて深くなってゆくそれに、慶喜さんが切なげに喉を鳴らす。
「・・・っん」
やがて唇が離れると、私はそれまで水中で息を止めていたみたいに、はぁっと大きく息を吸い込んだ。
「ごめん、つい夢中になっちゃった」
照れくさそうに言って微笑するその麗しい顔に、どきどきと動悸が激しくなる。
ふふふっと声を出して、もう一度、私の唇をちゅっと吸う。
「また止まらなくなる前に、行って来るね」
「・・・はい、行ってらっしゃい」
私は、ネクタイを締め直してリビングを出て行く慶喜さんの背中を真っ赤な顔のまま見送った。
≪慶喜編3へ続く・・・≫