人間と謂う


種族の中にも


狼(オオカミ)の様な嘘つきも居れば

狐(キツネ)の様な狡猾な人も居る。


貍(タヌキ)の様に

てくてくとぶら付いて居る人も居れば


兎(うさぎ)の様に

耳を立てながら

きょろきょろとして居る人も居る。


鳥の様に

我、関せずの人も居れば


燕(つばめ)の巣の様に

そっと人との生活に


馴染もうとして居る人も居る。


人間と謂うよりは

動物として


観察し

理解して遣る方が


的(まと)を得ている場合も多いのだ。


勿論、私自身も含めてね。


人間とは

言語を操(あやつ)る動物だ。


「俺の事を泥棒扱いするのか!」と物凄い剣幕で


怒り心頭の子の姿に


まあ、流石(さすが)に

此処まで謂うのだから


遣って無いだろう・白だろうと


一瞬、其の様子に

心を許して仕舞えば


此方(こちら)の気も

ふわっと軽くは成るが


予想外に

遣って居た。


黒だったりする事も在る。


人間も自分だけの都合で

生きて居る動物の側面を


強く持つ生物(なまもの)でも在るのだ。


信じて遣る事だ。

しかし


同時に

真実も視て遣る事だ。


白か黒か。


遣ったか、遣って無いのかは


なかなか

判断のつき難(にく)い


難題でも在る。


遣って仕舞えば

子供で在れば


心から

御免(ごめん)なさいと


一言でもいいから

謝る事だ。


大人で在れば

警察沙汰にも成る事も在る。


人間は

動物だ。


決して

信じ過ぎる事、無く


真実の其の性向(せいこう)を

見詰(みつ)めて遣る事だ。


其れは

やはり


俺、自身に付いても

謂える事なのだ。


俺も信用ならない動物・生物(なまもの)でも在る。


だからこそ

人間関係には


どうしても

少しでも


思い遣り・恕と謂うものが

欲しいものだ。