人の心は


善くも悪くも

感じたい放題だ。


視覚は

新たな感情を想起するに


何とも便利で

敏感な器官で在ろうか。


それは

通勤の電車の車窓、行き交う人々


様々な感情が

善くも悪くも


湧き上がる。


湧き上がる感情に


名前(なまえ)を名付け

言葉を添えて遣る事だ。


心の襞(ひだ)とは

言葉に依(よ)り積み上げられる


人知れぬ

バベルの塔(とう)でも在る。


人はその力(power・force・energy)に

奢(おご)るのか?


その人間の可能性と謂うものに

酔いしれ


人間としての

命(life)の定めを忘れて行く。


死に行くものは

何かを繋ぐ事だ。


それは

記憶(memory)。


記憶(memory)こそ

人間の本質に


最も近きものの一つでも在る。


何を記憶するのか?


何を刻むのか?


それに依って

今(the moment)も

未来(the future)の姿さえ


変化するかも知れない。


その可能性とは

未来(the future)に対する

大きな恩恵とも成るかも知れない。


分かっていても止められない。


それが

悲嘆と謂う


心的アティトゥード・態度だ。