旧制浜松高等工業学校(現 静岡大学工学部) | 建築探偵のひとりごと

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世界ではじめて、高柳健次郎博士がここの研究室でブラウン管式テレビに、いろはの「イ」の字を映したのが学校の誇りです。

大正11年、静岡県浜松市広沢町に開校した官立第14高等工業学校、すなわち浜松高等工業学校は、静岡県が設立資金として現金47万5千円と敷地1万5千坪を寄付して誘致されました。初代の関口校長は、この新設校を日本を代表する学校にすべく少壮気鋭の学者を集めました。高柳は、テレビジョンの研究という大望を抱いて大正13年にこの新設校に赴任し、校長の黙認のもと、ついに実験に成功しました。この世界的成功により、昭和5年にその実験風景は昭和天皇の天覧の栄誉を得ています。

官立専門学校は、官制上は研究所を持てない建前になっていますが、浜松高工の成功はNHKを動かしました。その結果、電視研究室は年額10万円の研究費補助を受けることになりました。昭和12年に現在の放送基準に匹敵する送受像方式を開発し実用化にメドをつけた高柳は、昭和15年のアジア初の東京オリンピックの中継という大事業の準備に専念するため、その研究員の多くを引き連れNHKに移りました。
大日本帝国の国威を世界に示す東京オリンピックは、日本の国際連盟脱退とともに幻に終わりましたが、そのテレビジョン研究の努力は戦後花開くことになります。サンフランシスコの講和会議で連合国による日本の占領が終わり、昭和25年にテレビの実験放送が開始するや、各電機メーカーは競って家庭用受像機の開発にしのぎを削ります。そして、その尖兵となったのが高柳門下の浜松高工出身者でした。

世界標準となったVHS方式のVTRを開発したのが、高柳博士が経営陣として名を連ねる日本ビクターで、一時はその特許収入だけで会社の経営が成り立っていたということはよく知られていますが、その開発責任者高野鎮雄もやはり浜松高工卒業生でした。


浜松市はハーモニカとオートバイの町といわれたように、東海地方有数の工業都市でした。この町でトヨタ系のピストンリング会社を経営していた本田宗一郎が材料研究のため浜松高等工業に聴講生として通ったし、宗一郎のあと社長を務めた河島ほかホンダの重役の何人かは浜松の卒業生です。このため、太平洋戦争では浜松は20回以上の空襲に見舞われます。このため浜松工業専門学校と名前を変えたこの学校の校舎も、終戦直前の空襲とアメリカ艦隊の艦砲射撃により殆どが焼失し、仕方なく学校は浜松市城北の旧軍学校の跡地に移転しました。
戦後、学校は静岡大学の工学部となりましたが、県下の他の分校が静岡市に統合移転されたあとも浜松の地に踏みとどまっています。そして、世界のテレビ発祥の地を記念するため旧校地跡の浜松西部公民館には「浜松高工発祥の地」と「いろはのイの字」の碑とが建てられています。