広川町と湯浅町の境界線上に広城がある。

その城主は、応仁の乱 主役の畠山義就。

 

あの複雑な「応仁の乱」を、この紀州、そして

畠山義就から、見ていけばもっとわかりやすく。

 

また、郷里に愛着がわくといったものではないか。

 

まずは、

広川町誌14ページに及ぶ畠山時代を、テキスト化します。

 

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畠山時代

およそ、半世紀を超える南北朝の動乱も、南北両朝合体といぅ打開策によって、一応、干戈を納め得た。
 だが、その結果は、さきに、後醍醐天皇が願念された天皇親政と程遠い、やはり、武家政治再来に外ならなかった。鎌倉幕府に代って、京都室町に足利の武家幕府が、この時既に創設されていたのである。
 明徳三年(1932)十月、南朝後亀山天皇は南山から京都に還幸され、北朝後小松天皇に神器を授けられて 南北朝合一なった頃から時代を、ひとくちに室町時代と呼ぶ。
 この室町時代は、この地方では、また、畠山時代ともいわれている。畠山氏が紀伊国守護職を併任して、広庄 名島の地に、その拠城を有していたからに外ならない。本章では、主として、この畠山守護職時代の出現から終焉までを略叙してみたいと思う。
 ところで、この室町時代は、鎌倉時代御家人地頭の地領支配と、江戸時代大名の地領支配の中間的な守護の地領支配の時代であった。だから、いまだ江戸時代の大名程、その地領支配は強固なものでなかった模様である。 そして、この時代、農•エ•商の発展と相俟って、庄民勢力が次第に盛り上って、所謂、下剋上の世紀を形成した。武士社会においても下剋上はこの時代の特色である。

 さて、畠山氏は、室町初期応永七年(1400)紀伊国
守護職を併任すると、初めに名草郡大野に城を築き、やがて、この広庄名島にも築城した。この山城を、いま高城と呼んでいるが、広城というのが正しい呼び名である。畠山氏は、この他、石垣庄に島屋城を、宮原庄に岩室城を構え、一族を配し、さらに、護りを堅くした。
 
 ところで、畠山氏は、いったいどうして、紀伊国守護職となったのか、その経緯について簡単に述べよう。

 少し時代が遡るが、南北朝時代永和の頃(南朝年号天援)既に南朝方勢力が衰えたとはいえ、いまだ各地に、兵を挙げるものがあり、紀伊国では、湯浅氏もその一人であった。
 また、特に同国橋本正督が挙兵して、幕将細川業秀を淡路に敗走せしめる。そこで、幕府(将軍義満)は永和四年(1378)十月、山名義理を紀伊国守護に、山名氏清を和泉国守護に補して、共に紀州に進攻させた。
この攻撃を蒙って、湯浅一族は、翌康暦元年(天授五年)遂に滅亡し、橋本正督も、その翌年戦死して、南風全く振わなくなった。
それから、十三年の後、山名義理<美作.紀伊両国の守護)は、同族山名氏家(因幡の守餿)と共に、弟氏清(丹波・和泉•但馬の守護)に動かされ、山名一族は幕府に叛旗をひるがえした。
時に明徳二年(元中八年=1391)のことである南北両朝合体の前年に当る。
そして、山名軍は一時、京都に迫ったが、幕軍との戦いに利あらず、氏清は京二条大宮で戦死し、氏家は敗走。義理は大内義弘に追撃されて紀伊に逃れ、藤代から船で由良に奔り、興国寺に入って出家したが、遂に伊勢に至って没落した。だが、氏家は、その翌年宥されて入京している。 
この明徳の乱に戦功の諸将は、みな山名氏の旧領を頒たれ、その守護職に補せられた。
 山名義理を追撃して、遂に滅亡させた大内義弘は、その戦功によって、義理の旧領和泉•紀伊を与えられ、も との領地周防•長門•豊前•石見と併せて六州の守護を兼ねることとなった(『明徳記』)。
山名氏、紀伊の守護たること、僅に十有余年、その跡を襲った大内氏も、これまた、紀伊国守護たること、十年にも満たない短期間であった。次に、それを述べよう。

上記した如く、大内義弘は明徳の乱の戦功により分国六州に及ぷ大守護大名となる。そして、その勢力、遂に管領家を凌ぐ有様。この勢力、やがて彼をして驕慢な態度をとらせる結果を生んだ。それが嵩じて、早くも室町幕府に対し叛意を抱く運命を招いた。
 彼は、応永六年十月、筑紫•中国の兵を率いて泉州堺の地に陣したが、翌十一月、幕府軍の攻撃に会って敗死した。彼義弘の軍を破ったのは、畠山基国•満家父子の軍であった。その戦功によって、基国は、ただちに、紀伊国を与えられ、当国の守護職となるのである。彼は既に河内国の守護であったから、この時から河内.紀伊両 国を所領することになるが、彼の子孫は数代、紀伊国守護として続いた。中世紀伊国守護職中この畠山時代は、最も長く、室町初期から、殆んどその末期まで及んだ。
 従って、当地方の室町時代は、畠山時代といぅ言葉で、長く呼ばれてきた。しかし、紀伊国全本からいえば必ずしも、実情はそのようなものでなかつた模様である。これについては、後述で少し触れる機会があるであろう。 ここで、基国を初めとする紀伊国守護職に就いた畠山代々の名を、次に挙げよう。

氏名     法名   官職名•通称 
  在任 期間

畠山 基国  徳元   右衛門左入道
  応永七年(1400)-応永一三年(1406)

畠山 満家  道元   尾張守•左衛門督
  応永一三年(1406)-氷亨五年(1433)

畠山 持国  徳本   尾張守•左衛門督      

  氷亨五年(1433)— 文安四年(1447)

畠山 義就        右衛門佐 
   宝徳二年(1450)— 寛正元年(1460)

畠山 政長        左衛門督 
   文明一八年(1486)

畠山 尚順  卜山    次郎・尾張守
   永正元年(1504-永正一二年(1515)

上は、高柳光寿•竹内理三共編『日本史辞典』(角川版)によつて掲げた。ついでに、畠山氏以前の紀伊守職を参考までに挙げると、さきに述べた山名義理、大内義弘以前に細川顕氏、畠山国清、細川業氏の順にあつた。
それを、前掲書から引用すると次の如くである。

氏名      官職名•通称
   在職期間

細川 顕氏   陸奥守  
   建武四年(1337)

畠山 国清   左京太夫
    建武四年(1337)-観応二年(1351)

細川 業氏   陸奧守   
   永和四年(1378)

山名 義理   修理大夫
   永和四年(1378)— 明徳二年(1391)

大内 義弘   周防介•左京権大夫
   明徳三年(1392) — 応永六年(1399)