杉並区高円寺の周辺をぶらり散歩の続きです

富聚山 長龍寺に行きました
曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来
文禄2年(1593) 開山

明治42年に新宿区市ヶ谷左内町から移転

 

山門

表札

扁額

山門前の地蔵尊

聖観世音菩薩

六地蔵尊

由緒

長龍寺 本堂

長龍寺 地蔵堂

水瓶

豆腐地蔵尊 杉並区有形文化財

豆腐地蔵の伝説

むかしむかし、市谷左内坂下の豆腐屋に、いつも日暮れどきであったが、豆腐を買いに来る一人の僧があったそうな。ところが、妙なことにこの僧が買いにきた日にかぎって、あとで勘定をしてみると、きまって売上の帳尻があわぬ。それもそのはず、銭のなかに木の葉が一葉まじっているのであった。これは、さだめて妖怪変化のたぐいのしわざであろうと、店の主人がある日、例のごとく日暮れじぶんに豆腐を買いにきたその僧のあとをつけていくと、かの僧は坂上の長龍寺の山門の中にすうっと消えたのだそうな。お坊さんがまさか妖怪でもあるまい、と主人はおもったが、不思議な事には違いないから、その筋に届け出た。この噂はたちまち町中にひろまったので、時の寺社奉行は配下の清水兵吉という者に命じて僧の正体をつきとめさせることにした。
そして数日後のことだった。夕暮れ時に、豆腐屋からいつものように豆腐を買って僧が出てきたので、清水兵吉はあとをつけ途中で呼びとめたのである。が、兵吉が「おいおい、そこな出家よ」というやいなや、くだんの僧は突然逃げ出したのだった。兵吉は追いかけた。そして抜きうちに斬りつけた。その瞬間、なんとも不思議なことに、僧の姿は忽然と消えたのだそうな。
不思議なことはそれだけではなかった。そこに、血のついた小さな石片がぽつんとあるのだった。兵吉は血痕をたどっていく。それは長龍寺の中の地蔵の前で消えている。
見ると、その地蔵は右耳から肩先にかけて断ち割られて、兵吉をごらんになるその御眼がなんとも怨めしげである。さては、くだんの僧はこのお地蔵様の化身だったのか、お地蔵様は豆腐が大好物だったのだな、と気づいた兵吉は、深い懺悔の念にとらわれた。
清水兵吉はその後出家して「徹了」の僧名で長龍寺の弟子となり、生涯地蔵の供養につとめた。豆腐屋の主人も、もとはといえば自分の届け出から生まれた一件だったから、これも大いに懺悔するところあって、それからは一日一度は長龍寺に地蔵参りをすることを欠かさなかった。
その効験あってか、ためにその豆腐屋はすこぶる繁盛するようになり、この右耳の欠けた地蔵は「豆腐地蔵」とよばれ、江戸の豆腐屋の信仰をあつめ、やがては江戸庶民の商売繁盛の守り地蔵としてしたわれていったのだそうな。
<長龍寺史より>

地蔵尊

石仏

無縁仏供養塔

長龍寺の説明板

当寺は富聚山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦如来座像です。寺伝によれば文禄2年(1593)に心岩舜応和尚が麹町四番町(現千代田区四番町)に開創したといわれ、元和2年(1616)寺地が御用地となり、市ヶ谷左内坂(現新宿区市谷左内町)に境内地を拝領して移転しています。
寺名の由来については、開山の玄室宗頓和尚が本寺である雲松院境内の池に住む竜に偈を授け、小蛇と化したのを捕えて当寺の寺宝とさせたのにちなんで、長隆寺の「隆」を「龍」に改めたと伝えられています。
江戸時代の当寺は、開基である幕府御使番河野氏をはじめ、油川武田家を主体とした旧武田家家臣団、ならびに徳川の名門松平14家である滝脇松平家(世良田家)、朱鎗の名家長坂血鎗九郎家、応仁の乱には西軍の将として有名な「山名宗全」を生み出した山名家の本家、その他旗本・名家76家の菩提所で、代々の住職は朝廷より勅賜号を賜わるなど、寺運は隆盛をきわめました。
明治42年、陸軍士官学校の拡張にともない、この地に移転しました。宝暦6年(1756)建造の本堂、元文2年(1737)建立の山門は、この時に移築したもので、古い建造物の面影をよく伝えています。
境内の地蔵堂には山之手28番第11札所として著名であった豆腐地蔵尊(宝永5年(1708)造立)が安置されています。

☆ご覧いただきありがとうございました滝汗