ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァの悲劇:ヨーロッパの闇を照らす光 | 榊原平のブログ―安城·愛知から世界に学ぶ Taira Sakakibara’s Blog : A Global Learner from Anjo and Aichi

榊原平のブログ―安城·愛知から世界に学ぶ Taira Sakakibara’s Blog : A Global Learner from Anjo and Aichi

榊原平と申します。愛知県安城市出身・在住。常に学び、観察し、考え、人や社会に共感し、このブログでは自分が学んだことや考えたことや感じたことを書いています。このブログで安城・愛知から世界へつながり(Solidarity)を作りたいと思っています。

 

スレブレニツァの悲劇: ヨーロッパの闇を照らす光

はじめに

スレブレニツァの虐殺は、1995年の夏、ボスニア・ヘルツェゴビナの小さな町で起こった悲劇で、その背後には複雑な歴史と政治的な緊張がありました。

紛争の背景

ボスニア・ヘルツェゴビナは、1992年までユーゴスラビアの一部でした。しかし、民族間の緊張が高まり、ボシュニャク人(イスラム教徒)、セルビア人、クロアチア人の間で紛争が勃発しました。この紛争は、ボスニア・ヘルツェゴビナの中央政府と、それぞれの民族が設立したヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国とスルプスカ共和国との間で行われました。

虐殺の発生

セルビア人勢力は、南北のセルビア人地域をつなぎ、地理的に連続で民族的に純粋な領土を確保する目的で東部ボスニアでの戦闘を優位に進めました。そして、ボシュニャク人住民の殺害や強制追放を繰り返しました。スレブレニツァは、この紛争の中で孤立した町でした。周辺地域から逃れてきた多くのボシュニャク人が流れ込み、四方をセルビア人勢力に包囲されていました。1993年に国際連合はスレブレニツァを「安全地帯」に指定し、攻撃を禁じました。しかし、その保護も虚しく、1995年7月、セルビア人のラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍が町に侵入し、組織的な虐殺を行いました。

NATOの介入

この虐殺は、ヨーロッパで第二次世界大戦以降最悪のものとされ、8000人以上のボシュニャク人が殺害されました。この事件は、人間の残酷さと、国際社会の無力さを露呈した悲劇でした。そして、この虐殺がきっかけとなり、北大西洋条約機構(NATO)が大規模な空爆を開始しました。この空爆作戦は、「デリバリット・フォース作戦」と呼ばれ、1995年8月30日から9月20日の間に実行されました。この作戦により、セルビア人勢力は大きな被害を受け、最終的に降伏を余儀なくされました。

おわりに

スレブレニツァの虐殺は、私たちにとって、歴史の教訓となるべき出来事です。人間の尊厳と平和を守るために、私たちはこのような悲劇が二度と繰り返されないよう、常に警戒し、行動を起こすべきです。

 

類似記事