ジェラール・マイサ氏のアール・ヌーヴォー講義:アリアンス・フランセーズ愛知での芸術の夜 | 榊原平のブログ―安城·愛知から世界に学ぶ Taira Sakakibara’s Blog : A Global Learner from Anjo and Aichi

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榊原平と申します。愛知県安城市出身・在住。常に学び、観察し、考え、人や社会に共感し、このブログでは自分が学んだことや考えたことや感じたことを書いています。このブログで安城・愛知から世界へつながり(Solidarity)を作りたいと思っています。

Alliance Française Association France Aichi アリアンス・フランセーズ愛知フランス協会 は、アール・ヌーヴォーの魅力に彩られていました。

 


ジェラール・マイサ氏の講演は、まるで時を超えた旅へと私たちを誘うかのよう。


彼の言葉からは、19世紀末の革新的な息吹が聞こえてきます。

 

 

 

アール・ヌーヴォーの起源と目的

アール・ヌーヴォーは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動で、「新しい芸術」を意味します。


この運動は、産業革命によって大量生産された粗悪な製品に対する反発と、職人の手仕事を見直そうとするイギリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」に端を発しました。


特に、この運動の発祥はイギリスのロンドンで、ウィリアム・モリスとジョン・ラスキンの影響が大きいとされています。

 

アール・ヌーヴォーの目的は、新古典主義からの脱却を目指し、西洋の伝統にとらわれず、日本やアラビア、ケルトなどに由来する装飾様式や文様を取り入れ、19世紀の自由で新しい様式を打ち立てようとしました。


また、新しい素材であるガラスや鉄を多用したことも当時の人々には斬新でした。

アール・ヌーヴォーと日本との関係

アール・ヌーヴォーの源泉にはジャポニスム、すなわち日本美術からの影響がありました。

 

19世紀後半、開国後の日本を訪れた外国人の眼を通して、あるいは日本からもたらされた浮世絵や工芸品などによって、日本の姿が欧米で次第に知られるようになり、ジャポニスムが流行しました。

 

その後、アール・ヌーヴォーの流行がジャポニスムの母胎である日本においても知られるようになり、今度はアール・ヌーヴォーが日本の美術家たちのあいだに広まっていきました。

フランスとプロイセンとの闘い

フランスとプロイセンとの闘いとは、1870年から1871年にかけて行われた普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)を指します。


この戦争は、フランスとプロイセンを中心とする北ドイツ連邦・南ドイツ諸邦連合との間で行われ、最終的にプロイセンが勝利し、ドイツ帝国が成立しました。

 

この戦争は、スペインの王位継承問題を発端とし、その後のドイツ統一や戦争における戦い方、当時の日本の軍の在り方にも大きく影響を与えました。

 

フランスがプロイセンとの戦いに負けたことがアール・ヌーヴォーと関係があるというのは、この戦争が19世紀のヨーロッパの政治的・社会的状況を大きく変え、それがアール・ヌーヴォーの発展に影響を与えたと考えられます。

 

具体的には、この戦争によりフランスの国力が衰え、それがフランスの芸術界にも影響を与えた可能性があります。

 

また、19世紀になると自由が大切にされ、それがアール・ヌーヴォーの自由な表現や新しい素材の探求につながったとも言えます。

ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクとアール・ヌーヴォー

ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクは、中世の建築物の修復で知られるフランスの建築家で、彼の理論と装飾に関する著作は、19世紀から20世紀初頭のアール・ヌーヴォー運動に影響を与えました。

 

彼の辞典に掲載された図面は、ウィリアム・モリスなどのアーツ・アンド・クラフツ運動の芸術家たちに影響を与え、その結果、アール・ヌーヴォーの自由な表現や新しい素材の探求につながりました。

 

ヴィオレ・ル・デュクの理論は、建築における形態と機能の関係についての新しい考え方を提唱し、これが後の20世紀の機能主義へとつながりました。彼の影響は、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、オーギュスト・ペレ、ルイス・サリバン、ル・コルビュジエなどの近代建築の父と見なされる建築家たちにも及びました。

 

したがって、ヴィオレ・ル・デュクの業績と理論は、アール・ヌーヴォーの起源と発展に深く関わっていると言えます。

 

彼の考え方は、新しい素材の探求や自由な表現、そして伝統からの脱却という、アール・ヌーヴォーの主要な特徴を形成する上で重要な役割を果たしました。

ヴィクトール・オルタ

ヴィクトール・オルタ(Victor Horta、1861年1月6日 - 1947年9月8日)は、ベルギーの建築家・デザイナーで、アール・ヌーヴォー運動の創始者の一人とされています。

 

彼はフランスの建築理論家ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクの熱烈な信奉者で、ブリュッセルのホテル・タッセル(1892-93年)は、ヴィオレ・ル・デュクの作品に基づいており、アール・ヌーヴォーの最初の家とされています。

 

彼の作品は、装飾芸術から建築へと非対称的な曲線模様を特徴としたアール・ヌーヴォー様式を取り入れ、その後のパリの建築家ヘクター・ギマールなど多くの人々に影響を与えました。

 

また、彼は鉄、鋼、ガラスの革新的な使用とオープンフロアプランにより、近代建築の先駆者ともされています。

 

したがって、ヴィクトール・オルタの業績は、アール・ヌーヴォーの起源と発展に深く関わっていると言えます。彼の考え方は、新しい素材の探求や自由な表現、そして伝統からの脱却という、アール・ヌーヴォーの主要な特徴を形成する上で重要な役割を果たしました。彼の作品は、芸術家や職人の自由な表現と創造性を尊重し、権威主義の制約から解放することを目指しました。