7 偽りの世界は終わりを告げ 4 | <闇の王と黄金の魔女シリーズ>

<闇の王と黄金の魔女シリーズ>

8才の猛攻幼女ベルと、生きる意味を持たない冷静沈着美青年レメクの童話めいた異世界ファンタジー。貧困・死別など時に重い悲劇を含みます


 夢から放り出されるかのように、唐突にあたしは目を覚ました。
 薄暗い布団の中で、あたしの小さな手が握り拳を作っている。目の前にあるそれをぼんやりと見つめてから、あたしは目をごしごしと擦った。
 ……目も頬も、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「…………」
 ずぴ、と鼻をすする。のろのろと体を起こして、ふわふわの布団から這い出た。
 もこもこの雲のような布団の外は、相変わらずの灰色世界だ。目を閉じる前よりもその色が淡いのは、きっと朝になっているからだろう。
(…………)
 あたしはペタンと布団の上に座る。何かを期待していたわけではない。……けれど、少しだけ胸がスカスカした。
(……おじ様)
 しょげたあたしの耳に、チチチという朝を歌う鳥の声が聞こえる。
 レメクの家で聞くよりも数が少ないのは、周りに森林のような木々が無いからだろう。あの自然に囲まれた屋敷は、王都という大きな都市の中にある小さな田園のようだ。誰もが夢見る、穏やかで暖かな幸せ──それがあそこには揃っている。
 ぐし、とレースの袖で目元をもう一度ぬぐって、あたしは豪奢なカーペットの上に降りた。
(もひょぅっ!)
 相変わらずの素晴らしい感触が足の裏を包み込む。ちょっとこしょばい。
 思わず足でカーペットの表面をなで回していると、ふと視界の端に何かが映った。
 あたしはそちらを見て──動きをとめる。
 ベッドサイドのテーブルに、ハンカチが一枚きちんと畳まれて置かれてあった。
 色はたぶん白だろう。灰色に見えるそれは、広げると可愛い模様の総レースだった。
 小さくて可愛らしい蒲公英ダンディライアンと、リボンを結んだベルの。
「…………」
 昔、これと似た意匠のハンカチをもらったことがある。
 そしてそれよりもさらに昔──こんな風に、テーブルにある贈り物に、大泣きした記憶がある。
(…………)
 あたしは胸元の革袋を握りしめた。
 ──ここにいるはずは無い。いるはずが無いのだ。
 それでもその人の顔が一番に浮かぶのは、そうであって欲しいと願ってしまうからだろう。
「……失礼いたします、王女殿下」
 扉をノックされ、静かな声で告げられて、あたしは慌てて零れそうな滴を目の奥に引っ込めた。降りたばかりのベットによじのぼると、しずしずと初めて見る顔のメイドさんが入ってくる。
 扉の所をチラと見れば、こちらはすでに見知っているフェリ姫のメイドさんがにっこりと微笑んでいた。……フェリ姫は、あたしの世話用にと何人かのメイドさんを傍につけてくれたのである。
「ご洗顔の準備に入らせていただきます」
 そう言って頭を下げた初見のメイドさんは、ワゴンの上に大きめの器(……銀?)と、美術品のような意匠を凝らした水差し(……これも銀?)、そして小さな小瓶をいくつか乗せていた。これが洗顔のための道具なのだろうか?
(……お姫様って……)
 呆気にとられて見ていたあたしは、その時、何かを感じてそのワゴンの下を見た。
 何かと目があった。
(?)
 目があった!?
「……!!」
 ぎょっとなって身を引くより早く、それが突然飛びかかってくる!
「きゃあ!」
 悲鳴があがった。あたしでは無く、あたしの前にいたメイドさんがあげた悲鳴だ。
「殿下!」
 扉の所にいた姫メイドさんが駆けつける──ってその手の剣は何ですか!?
 ぎょっとなったあたしに、飛びかかってきた小さなモノは素早くとりつき、するすると肩に登って首のあたりに張り付いた!
「キィッ!」
 耳の近くで小さな声が聞こえた。どうやらソレの声のようだ。
 ……てゆか、コレ、何ですか!?
「リスザルだと!?」
 リスザルって……ナンダ?
 意味がわからずに首を傾げたあたしの耳は、その時、ぶちっという何かが千切れる音を聞いた。
 唐突に、首にあった重さが消える。
(……え?)
「あ……あーッ! 殿下のものを……!!」
 姫メイドさんが血相を変えて走った。何事かと駆けつけた他の姫メイドさん達も一気に気色ばむ。
「なんということ……!!」
「婚約の証を奪うですって!?」
 ものすごい殺気だ。手に手にどこからともなく武器をとりだし、小さなリスのような生き物|(リスザル……だっけ?)を追いかける。
 あたしは呆然とそれを見送り、のろのろと自分の首に触れた。
 ……何もなかった。
(…………)
 そこにあった、紐も……それで吊していた革……袋……も……
(!!!)
 突然雷に打たれたように、あたしの頭の中が真っ白になった。
 なんということ! あの小動物は、あたしの命より大事なお宝を奪っていったのだ!!
「…………ッ!!」
 声にない怒号があたしの全身から迸った。
 なぜかその場にいた全員があたしを見る。突然動きを止めてぎょっとこちらを振り向いた犯人に、あたしは猛然と飛びかかった!
(返せーッ!!)
「キキィィッ!」
 凄まじい悲鳴が小動物の口から迸った。捕らえ損ね、あたしの手が空を切る!
 しかし! 一撃ぽっちで諦めるあたしでは無いのである!
(返せぇええッ!!)
 どたん! バタン! ドドンッ!
 逃げる小動物を追いかけて、あたしはそれこそ床から壁から走り回った。扉から飛び出た小動物を幾度となく捕まえ損ね、駆けつけるために新たな姫メイドさんが扉を開けた隙にさらなる外へ逃げ出した小動物の尻尾を掴み損ねる!
(ぬぁああ! あとちょいッ!!)
「妹姫様!」
「殿下!」
 仰天しておいかけてくる姫メイドさんを置いてきぼりに、あたしと小動物の捕り物劇は始まった!


(まぁあああてぇえええッ!!)
 朝を迎えた王宮の廊下は、灰色世界のせいで豪華さはピンとこないが、とにかく凄まじく広かった。
 小動物は時折柱に登ったり展示物の裏に隠れたりと小細工をしたが、そんなものがこのあたしに通じるはずがない!
 柱はよじ登って追いつめ、展示品の裏に隠れればすかさず鷲づかみにしようと手をつっこむ!
 しかし! 敵も然る者!! 小さくて軽い体を生かしてひょいひょいと逃げるのです!!
「キィイイイイッ!」
 ……なんかすごい絶叫みたいな悲鳴あげながら。
 日が昇ってどれぐらいたってる時間なのかしらないが、王宮の廊下にはほとんど人がいない。小動物の大騒ぎ(あたしじゃないわよ!?)に気づいてちらほら と顔を出す者もいるが、それでもその数は片手の指の数より少ない。──というか、見物人! 呆気にとられてないで、そのコソドロを捕まえてッ!!
(待てこらぁあああッ!!)
 あたしは心の中で絶叫した。
 他のモノならともかく、大事な大事なあたしのお宝を──よりにもよってレメクのお母さんの形見を! 奪っていくとは何事かッ!!
(どこのモノじゃぁああッ!!)
 あたしは目をつり上げて爆走する。小動物も死にものぐるいだがあたしも必死だ。邪魔なモノはなぎ倒す勢いで廊下を驀進し、そうしてその人物達を見つけた。

「キキィッ!」
 心なしか嬉しげに小動物が声を上げる。速度を上げて一目散にそちらに走る泥棒の行く手には、綺麗に着飾った男女が呆然と立っていた。
 そのうちの一人は、誰在ろう、あの王太子妃だ!
「……リリィ?」
 王太子妃の隣に立っていた、優美な美青年が呆然と呟く。その美青年の前で、小動物は大きくジャンプした!
「!」
 王太子妃が息を呑む。美青年を素通りして彼女に張り付いた小動物は、そのまま凄まじい勢いで華奢な肩に回り込み、あたしのお宝を小さな両手に持て「キィキィッ」と鳴いた。
「リリィ……いったい……それに……」
 唖然とした顔の王太子妃の横で、美青年は繰り返しそう呟く。それに、と見つめる先にいるのは、彼等の前に走り込んできたあたしだ。
「……! ……!! ……ッ!!」
 あたしはゼィゼィと肩で息をしながら、竜をも射殺す気迫で小動物を睨みつける。
 悲鳴を上げて王太子妃の後ろに隠れるソレに向かって、バッと右手を突き出した。
(返せ!)
「「…………」」
 王太子妃と美青年は絶句する。
 特に美青年は、王太子妃とあたしを見比べ、小動物を見て目を丸くしていた。
(返せ!!)
 そんな中で、あたしだけは真っ直ぐに小動物を睨み据えて手を伸ばす。あたしの気迫と動作に、美青年も意味に気づいたのだろう。小動物を覗き込んで言った。
「また悪戯かい? リリィ。駄目だよ、悪いことをしては」
 そう言って伸ばした彼の手を、けれど小動物は「キキィッ」と抗議して小さな手で叩いた。……なんて生き物だ!
「リリィ」
 美青年は困った表情になる。そうして、未だに呆気にとられた顔のままの王太子妃に視線を向けた。
「マリー。リリィに言ってくれないかな。どうやら、こちらのお嬢さんの大事なものを盗ってきてしまったようだよ」
 マリー。
 どうやらそれは、王太子妃の呼び名であるらしい。
 美青年の声に、王太子妃はぎくしゃくと動いた。手を小動物の近くに向けると、それだけで小動物は意を得たようにあたしの宝物をその手の中に落とす。
(……返せッ!!)
 あたしは鬼の形相で手を更に伸ばした。
 王太子妃はそんなあたしを見下ろす。
 その瞳に、鬼火のようなものが揺れた。
「……これは、私が貰うはずだったものですわ」
「……マリー?」
 ぼそりと呟いた王太子妃に、美青年は首を傾げる。
 王太子妃は、手の中の革袋をぎゅっと握りしめた。
「私が貰うはずだったものです。リリィは、きっとそれに気づいて、取り返してくれただけですわ」
(なにを言っとるのだーッ!!)
 あたしはギンギンに目を光らせた。
 それは、レメクがあたしにとくれたものなのだ!
 自分はこれしかもっていないから、と。だから、自分の唯一の持ち物であるそれを、あたしに譲ってくれたのだ!
 断じてこの茸ブロッコリーの物では無いのだ!!
「殿下!」
 そのまま激情にまかせて飛びかかりかけたあたしを、後ろから追いついてきた姫メイドさんの声が引き戻す。
「殿下! くせ者はどこに……!!」
 血相を変えて走り込んできた……ぎぇえええ!?
 振り返ったあたしは、思わずその光景に目と口を極限まで見開いてしまった。
 そこにいるのは姫メイドさんだ。それはわかる。それはわかるのだが……何故、数人しかいなかったはずの彼女らが、数十人にふくれあがっているのでしょうか!?
 おまけに全員が箒やバケツやモップを構えている。さすがに部屋の中みたく剣は抜いていないが、それにしても異様な出で立ちだ。
「妃殿下!? 王太子殿下まで……!」
 彼女らは、あたしの前に立つ二人に大きく目を見開き──そして一斉に凄まじい怒気を全身から放った。
「妃殿下。こちらに王女殿下の宝物を奪ったリスザルが走って来たりはしませんでしたか」
 妃殿下は答えない。さすがに顔をひきつらせて、半歩分後ろに下がった。
「王女殿下は先の婚約の折、婚約者であるお方からこの世で唯一つしかない大切なものを譲られました。賊であるそのリスザルは、こともあろうにその世にも稀な宝物を盗んで行ったのでございます! 見つけ出し、取り戻さねばなりません!! これは我が王女殿下に、ひいては我が王室に対する挑戦になりません!」
 さらに半歩下がった妃殿下に、隣にいた美青年(王太子殿下?)が目を丸くする。そうして、ふとあたしを見下ろした。
「……もしや……ベル王女殿下でいらっしゃるのですか?」
 あたしは頷いた。
 とりあえず、今はそう呼ばれている者です。
 さぁ、返せ!
 ずいっと手を伸ばしたあたしに、美青年はなにやらしみじみと頷き、そうして、どこか悲哀を込めた目で王太子妃を見つめた。
「……マリー。お返ししなさい。リリィの悪戯は、ちゃんと謝らないといけないよ」
 さぁ、と促されて、王太子妃は顔を歪めた。親に叱られた子供のような顔の中に、一瞬だけ、醜悪なものが滲む。
 けれど、ふいに無表情になって、あたしのほうに革袋を放った。
(レメクのお宝!)
 あたしはそれにバッと飛びつく。同じタイミングで小動物も飛びつきに来たが、あたしの一瞥をくらって尻尾を巻いて逃げ去った。
 ……勝った!!
「妃殿下!」
 喜ぶあたしに反して、王太子妃の行動に目くじらを立てたのは周りのメイドさん達だ。王太子妃は知らん顔でそっぽを向く。
 ぎゅぅっと戻ってきた革袋を抱きしめるあたしに、美青年は困ったような微笑を浮かべて跪く。そして、自分の羽織っていた上着を脱いであたしにかけてくれた。
「申し訳ありません。我が妃のペットが失礼をいたしました。あの子はよくああやって、悪戯ばかりするのですよ」
 穏やかな微笑みの中で、その声だけはひどく苦いものを含んでいた。あたしは優しい顔のその人を見つめる。どこか寂しそうなその人の笑みは、少しだけ空虚だった。
(……おじちゃんのせいじゃないの)
 首を緩く横に振るあたしに、その人はちょっぴり微笑む。なんだか切ないような悲しいような、そんな淡い笑顔だった。
(……この人は……?)
 首を傾げて見上げるあたしから視線を王太子妃に移し、彼は静かに言った。
「マリー。君も、王女殿下に」
「お断りいたいますわ」
 言葉を遮って、ぴしゃりと王太子妃が声を上げる。
 ざわりとメイドさん達の気配が揺らいだ。
 あたしも軽く目を見開いた。空気は王太子妃の方からあたし達の方へと流れているらしい。なぜなら、滲むような凄まじい異臭が、風に乗って彼女から漂ってきたのだ。
「なぜ私が謝らなくてはならないのです。バルディアの王太子である、あなた様まで膝をついて謝られたというのに」
「私の謝罪と、君の謝罪は別だろう? マリー」
「まぁ! あなた様は、妻である私に恥をかけとお言いになるの!?」
 妻!?
 あたしはびっくりして美青年を見上げた。
 この、ケニード並みに麗しい美形さんが、この王太子妃の殿下!
(なんてもったいない!!)
 そしてこの王太子妃から臭ってくる、鼻の曲がりそうなとんでもない臭いは、ナニ!?
 どんどん醜悪になる臭いに、あたしはたまらず鼻を摘む。
「罪を認めることは、とても大事なことだよ。まして彼女は、こんな格好で追いかけるほど、その小さなものを大切にしていたんだから。君も見ただろう? あの必死の姿を」
 こんな格好、で、あたしは自分の姿を見下ろした。
 ……ぉー。そう言えば、起きたてだったので、薄い寝間着一枚だったのである。
 あたしはいそいそと羽織らせてもらった王太子様の上着で自分を包み込んだ。こっちの人の匂いは、ちょっぴり切ない感じの爽やかなものだった。
 しかし、王太子妃から漂ってくる異臭はいただけない。あたしはすぐにまた鼻を摘みなおした。
「私は……私は……!」
 王太子妃が歪めた顔を背ける。
 そうして、その場で硬直した。
(……ん?)
 その様子に、あたしも王太子様も首を傾げる。
 ちょうどあたしの後ろの方に視線を向けたまま、彼女は愕然と棒立ちになっていた。
「マリー?」
 王太子様はきょとんと名を呼び、そうして、彼女と同じ方向を見て目を見開いた。
 こつん、と。足音がする。
 それだけで、あたしも動きを止めてしまった。
 同じタイミングで、ざわり、とあたしの後ろが大きくざわめいた。大慌てでメイドさん達が場を開けるために走る。そんな中でも、その足音はあたしの耳に聞こえていた。
(…………)
 息が止まる。
 体が軋む。
 鼻を摘むことすら忘れてしまった。解放されたあたしの鼻が、王太子妃の異臭と、王太子様の爽やかな匂いとを嗅ぎ取る。
 望んだ匂いはまだしない。
 しないけれど……けれど、この、足音は……
 コツ、と。あたしの後ろでその足音が止まった。
 背後にいたはずのメイドさん達は、コソとも音をたてずにいる。ただ、気迫にも似たものすごい熱があたしに注がれているのを感じた。
 いや、あたしと、たぶん、あたしの後ろに立った人に。
 けれどあたしは振り向けなかった。
 振り向いて……もし違ったら?
 足音を似せただけの、アウグスタや、ポテトさんだったりしたら?
 そうしたら、もしかしたら、何か大事なものが壊れてしまいそうな気がするのだ。
 今、体中が心臓のようになってしまっている、あたしのこの気持ちとかが。
(…… ……!)
 あたしの口からあるかなしかの呼吸が零れる。
 心臓が今にも飛び出しそうだ!
 ぎゅっと革袋を握りしめたあたしの後ろから、その人はそっと声を落とした。
 ただ一つ。あたしが願った、聞きたいと心から願ったあの声で。

「……ベル」