この頃、将来的にはキリスト教に改宗しよっかなー、
とも思っている。
最終学歴がカトリック幼稚園卒なので、
聖歌も歌ってたし、キリスト教に、
そんなに違和感ないのだ。
ウチは曹洞宗(禅宗の一派)なのだが、
葬式しかしない仏教に少々不信感を持っている。
葬式仏教とはよく言ったもんだと思う。
でも、新しい山門を作るときなんて、
お布施のおねだりが来るし、
出来上がった山門は、そりゃー立派なもんだ。
大きいとは言えないまでも、
街の人口規模に比して
分不相応に格調高くそびえ立っている。
日本には大乗仏教の宗派しかないが、
寺と日常生活でのつながりが無い分、
敷居の高い、上座部仏教の匂いがすると感じてるのは、
アタシだけだろうか?
キリスト教は毎週ミサがあり、コロナ禍でミサができない昨今、
ミサができないのでは、宗教者としての価値が無いと、
神父様が嘆いておられるし、
ホームレスや生活困窮者に対して
NPOやボランティアと連携して
炊き出しをしたり、住居のお世話をしたりと、
今の仏教より、その活動に共感することが多い。
なんとなく心洗われるのだ。
宗教とは、かくありたいと思ってしまう。
寺(仏教)がそんなことするのを寡聞にして知らないのだ。
日本でもよく歌われる聖歌・讃美歌に
「いつくしみ深き」(聖歌657番。讃美歌なら312番)という歌が
あるが、曲だけでも心洗われるのに、
それに歌詞を乗っけると、
もー泣けてくる。これがホントの宗教的感動ってやつねッ。
つい最近、ペットボトルのリサイクルの
CMのBGMで、これが流れててびっくりした。
CM作った人は、この曲を使いたくて、使いたくて
たまらなかったんじゃないかなー。
1 いつくしみ深き 友なるイェスは
罪 とが 憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を
2 いつくしみ深き 友なるイェスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん
3 いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて 労りたまわん
1節から3節の全ての詩がもう、宗教的感動!
「いつくしみ深き」の後の詞は普通、「聖なるイェス」でも
良さそうなもんだが「友なるイェス」となってる。
イェス様は友なのだ。友っていうのがイイね。
友なら一緒に肩組んで、
酒でも飲んで語り合いたいではないか。
作詞者が2度も婚約者を亡くすという、
涙無くして聞けないエピソードもあり、忘れ難い曲だ。
(歌詞の1番、2番……を讃美歌では節という。
これは、1番、2番…というとその讃美歌ではなく
讃美歌集の1番、2番…という意味になるからである。)
ちなみにキリスト教は聖歌・讃美歌・ゴスペルといった
音楽と結びついているが、
お坊さん(仏教)は教義上、音楽は歌わないし
楽器もダメなのだ。音楽は快楽と見做されタブーなのだ。
もちろん、今の坊主は私生活なら
バンドもやるし、ラップもやるが、
昔の「ビルマの竪琴」って話は、基本的に有り得ないのだ。
さてさて、改宗すべきか?
経験者の意見も聞いてみたいものである。
クリスチャンネームは、やっぱクラリスがイイかなー。
<カトリックとプロテスタント>
●「神父」はカトリック教会、または正教会、
東方正教会の聖職者。神父は独身でなければならない。聖歌。
●「牧師」はプロテスタント教会の聖職者。
牧師は家庭を持つことができる。讃美歌。
牧師は正式な職名でもあるのに対し、
神父は尊称です。正しくは司祭といいます。
ちなみに牧師を先生と呼ぶこともあります。
(大昔、大ヒットした「異邦人」を歌った
久保田早紀さんは
今、久米小百合という本名で
音楽宣教師やっておられます。)