前記事に続き、《太極拳経》の『其根在脚,発於腿,主宰於腰,形於手指』における「形於手指」をネタに、太極拳の手について少し議論してみたい。
「形於手指」とは、足元から伝わってきた勁を手の指に通して使うということだ。武術としては当たり前のことだ。せっかく生み出した勁が手の指に届かず使うものにならなければ、話にならない。
筆者は呉式太極拳三代目伝承者・故馬岳梁氏の弟子・故張金貴師に呉式快拳を師事した際に「勁が体にこもって手に十分届いていない」と指摘され、「勁を手に通すことはたやすくない」と語られた。冬場に心臓から遠い手足が冷たいのと同様で、脚→腿→腰→…→手という経路が長く、途中勁の障害となるものが多いからだ。
脚から手指への伝達がスムーズに行われる用件は二つある。足首、膝、股関節、肩、肘、手首の各関節並びに関節間の筋肉の「鬆開」と関節間の「節節貫穿」だ。つまり脚から生み出された勁は手指までの間に消耗されないように通路を広くすること、又、その勁が目的地へ進むように意で促すことだ。無論、伝達問題の以前に脚から生み出された勁の量が関係する。又、その量は脚に沈んだ「気」の量に比例する。「気」の量を多くするには上記関節・筋肉の「鬆開」並びに「虚領頂勁」や「中正」などの身法要領が係わる。従って、「形於手指」はそう簡単ではないし、太極拳の手は手だけの問題ではないのだ。
手指への勁の伝達が難しいこととは逆に、「鬆」をしようと思うと真っ先に手指の力を抜く傾向がある。体より手指の力が抜きやすいからだ。ところが、「力を抜く」=「鬆」ではない。「節節貫穿」によるものでなければ、推手のタブー・「DIU」になってしまうのだ。推手における、俗称「点緊体鬆」の要求はそれに対するメッセージとも言えよう。しかし、「点緊」は手に力を入れることではない。フレキシブルな一体化(節節貫穿)になっているかどうかがポイントだ。
要するに、「形於手指」は手で形を作るのではなく、足→体→手→体→足→…といった意・気・勁の循環における手の動きのことを指すのだ。手は単独で動かすものではなく、その循環において動きを取るのだ。慢架套路においては、「以身帯手」(体→手)もあれば、「以手帯身」(手→体)もある。又、推手においては、相手に手をつけたまま、足で地面を踏んで押すこともあれば、手で相手の動きを誘引して「借力打力」の威力を発揮することもある。何れも上記循環におけるいわゆる「梢節」としての手の動きだ。