エースの品格 一流と二流の違いとは 野村克也 | 大義道のブログ mosh pit on KARATE 伊藤大地 和道流空手道

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「根気よく、粘り強く」などと口にするのは簡単だが、そうはいかない。
人間は壁にぶつかると、都合の良い理由を見つけて自分を騙し、納得させ、あるいは逃避してその場をしのいでいくものだ。そこからはもはや努力は生まれない。
努力をしても結果が伴わない事はいくらでもある。
しかし、努力するにもセンスが必要なのだ。
センスは「感じる」「考える」ことで磨かれる。監督やコーチは「気づかせ屋」であり、本人にその資質が認められた場合は、その努力に対してプラス思考のアドバイスを送る。






「先入観は罪、固定観念は悪」であると、私は断るたびに唱えている。選手たちには「自分の可能性を自分で限定するな」と言いつけてある。
「どうせ俺はこんなもの」と思った途端、現状維持どころか人間、力が落ちていく一方だ。
また、ちょっと良い成績を残したからといって満足してしまうも者にさらなる成長はありえないし、ほどほどの立場で妥協する選手に将来性はゼロである。
「満足、妥協、限定」は、プロ野球選手にとって3大禁句なのである。





「人間的成長なくして技術的進歩は無い」
私がよく持ち出すこのフレーズもまた、プロセス野球の一環である。天性の才能だけを頼りにプレイしていると、いつか必ず行き詰まる。その時「感じる力」「考える力」を養っていなければ、その闇の中から抜け出す術は見つからない。






プロセスを形作る中心には、「思考」がある。
それは、人間と言う生き物にしか備わっていない遂行の能力である。思考が行動を生み、習慣となり、やがて人格を形成し、運命をもたらし、そして人生を作り上げていく。
要するに、思考すなわち考え方は人として生きていく上での起点となる概念であり、教育史経験を積ませることでその重要性に気づかせることが「育成」の基本である。




私は新人選手たちにこのような問いをぶつけたことがある。
「お前は何のために生まれて、何のために野球をしているんだ?」
ほとんどの者が
「考えたこともありません」と心細げにつぶやく。
そこで私は、持論思って「この世に生まれてくる意味」を話しかけるのだが、最後は自分の頭で考えると伝える。
何も四六時中考える必要は無い。
1度で良い。それがきっかけとなり「思考」が始まれば良いと思っている。





本当に勝てるチームを作りたいのなら、技術云々の前に、まずは人間形成ありきだ。
結果より、プロセスを重視しなければならない。その道筋を示すのが、リーダーである監督の使命なのである。





「世の中には、ものが見えない人が1,000人いれば、見える人も1,000人いる」
見ている人は、ちゃんと見ているのだ。どんな仕事にせよ、信念を持って続けていれば必ず日が当たる時が来る。






「人生、意気に感ず」と言う故事がある。
人は上によって動く生き物だ。理論や知識を蓄えたところで最後は上がものを言う。
相馬社長の言動は、私の心を揺さぶった。
そして、意気を高めてくれたのである。
「人生、意気に感ず」
という言葉は、
「功名誰かまた論ぜん」
と続く。
自分の持てる力を存分に発揮するのなら、成功しようが失敗に終わる方が、そんなことは問題ではないと言う意味だ結果を気にしていたら、何も生み出すことができないのである。






人を育てると言う事は、つまり自信を育てると言うことである。
どのように接し、いかなる言葉を投げかければ良いかは、相手次第。
性格は千差万別であり、皆一様に褒めたり叱ったりしていたのでは、育つ可能性は低くなるばかりか、反発を食って聞く耳すらもたれなくなる。その辺のさじ加減が非常に難しい所であり、指導者としての醍醐味でもある。
選手の性格の細部を知り、様子を観察することで、企画の指導をここに与えていかねばならない。






「心なくば立たず」と言う論語の一説は、私の座右の銘である。信頼関係がなければ人間同士で何かを成し遂げることができない。上に立つ者に信念がなく、自信をしなってしまえば誰もついてこない。






「なるべく教えるな。考えさせろ。」
メジャーリーグには、「教えないコーチこそ名コーチ」と言う名言があるそうだが、あれこれ手を出しているのは、選手にとって意味のないことなのである。
私は監督業について以来、コーチ連中を集めて行言い続けてきた。
「お前らの気持ちはよくわかる。しかし、教える前にまず選手にやらせてみろ」
人は失敗して初めて自分の間違いに気がつくものだ。その前に指示を出したところで選手は耳をかさない。いや、耳では聞いていても、頭の中には全く入っていかないだろう。
「あのコーチは何もしない」
という陰口が聞こえてきても、知らん顔していればいい。何人かいる中で、放っておけば1人ぐらい自分から教えをこいに来る戦士が現れるはずだ。その時こそが、コーチが働くための絶妙のタイミングであり、くだらない風評を覆すチャンスなのである。
「どうすればいいんですか」と技術的なアドバイスを求めてきたら、今度は絶対に離してはならない。朝まで引っ張りまわして教えまくるのだ。
選手自身の知識力、向上心が最高潮に高まった時を見計らい、今度は集中的に指導を行う。聞き入れ体制が万全に備わっているからだ。これは人間の心理を巧みに利用した考え方である。
さらに言えば、以前に選手たちをよく観察することだ。間違ったことをやっていても何も言ってこない選手がいたら、それはよほど鈍感か考えていないかのどちらかである。
そういうものには少し問題意識が高まるアドバイスをして本人の中に疑問が生じるのを待てば良い。







苦手なことやできないことがあると、人はもがき苦しんで突破しようとするか、とりあえず放っておくか、または諦めてしまうか…のいずれかである。
野球選手の場合、ここで
「自分はなぜプロ野球選手になったのか」という基本的な目的意識があるかないかが大きな分かれ道になる。そして「差」を感じ、克服するために頭を振り絞れる者だけが一流選手として生き残っていくのである。








依頼心が強すぎると人間の思考の力は著しく衰える。思考が止まれば進歩も止まる。
だからこそ、まずは自分の頭で疑問を感じなければならないのである。一流となる選手は、他より多くの疑問を抱き、失敗から学びとる能力に優れているものだ。二流選手は、他人のせいにして失敗から学ばず、漫然と過ごしてしまう。







教えるということは、ある程度答えを出して導いてやらねばならない。しかし感じる力、考える方法を知らない者にいくら言葉を尽くしても時間の浪費と言うものだ。
指導している側の自己満足と言う、何の役にも立たない空虚な現実だけが残るのである。
前述したがまずは選手自身の中に疑問を生じさせ、向上するための知識力が充満するのを待つのが本来のコーチ術であり、指導の道だと私は思う。
人を教え導くための基本には、愛情がなければならない。愛情なくして信頼関係は生まれないし信頼がなければ組織そのものが成り立たない。人間が生まれながらに持っている理性や知性を尊重し、努力するセンスを独力で磨かせること。
それが私の考える「教育方針」である。美術について端から手取り足取り面倒みる事は、決して愛情ではない。
「情」を持って「知」を引き出し「意」へと導く。その流れができてこそ、師弟間、あるいは先輩と後輩、教える側と教えられる側の理想的な関係が築きあげられるのである。








この世界で生き残っていくものを見ていると、日々をあなたの気持ちで迎え、その連続が進歩を生んでいる。良い成績を残しても、ダメな自分に直面しても、いずれにせよ、今ある状況に慣れてしまうことが最も恐ろしい結果への入り口となる。
「慣れ」のなかに埋没してしまうと、どうにも抜けられなくなっていくからだ。







「優しい、難しい、どっちも本当だ。しかし、難しい道を踏んで踏んで踏み越えて、真難しい苦悩をした者だけが本物だ」
文豪、吉川英治の遺した言葉。

























自分は、野球が好きで中学生の頃から野村監督の本を読んでました。
最初に読んだ野村ノートから空手に受けた影響も大きかった。今の自分の考える空手の原点はここにあるのかもしれません。
有形の力のみならず、無形の力を持って相手と対すること。それも渡辺先生、野村監督から学んだ事です。
でなければ、自分みたいな身体能力に劣る選手は生き残れなかったと思います^^;
興味のある方は是非!
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