あれ?よく見たらみんな同じ人間じゃん!! -10ページ目

夢②の分析

ここでも「元彼女」がなにを指すのかに困った。
それによって、部屋の意味も決まってくる。
しかし、私は夢の中でその彼女に対し「性的対象」としてではなく、「幼児性」を感じていた。
よってこの部屋自体が、私の中の幼児性・甘えの領域だと考える。
月明かり、つまり夜であり、無意識の部分だろう。
落ち着き払った私=理性的な私が、彼女を説得する。
この時、夢の中での私は彼女が性行為をせがんでいるのが分かっていた。
下着の干したトイレは、「女性のトイレ」というニュアンスが強く、何か性的なものを感じる空間であった。
大雑把な改装と清潔感が示唆するのは、荒れに荒れたボロい(古臭い)部分の塗りなおしで、それは私の現在の性欲の抑え方であろう。
事実、今年の初めに別れてから性欲が安定せず、夜もなかなか寝れないでいる。
これを解消する為に、自分をだましている時も多々ある。
(これを書いていて結構情けない思いである)

別の部屋の扉は、入っても管理人に見つかってはならず直ぐにでることとなった。
恐らく、現実世界で私はその領域を確認していない。そして、その領域に入っても、何かしらの「事」を起こしてはならないらしい。

最後の抱擁も、甘えを理性で抑えていることを表現していることと考える。

夢③その2

小雨の中、高尚な武士(マゲではなく、長髪)と金太郎みたいな人が力比べか何かで戦っているのを見ていた。
結果は、武士の勝ちとなった。
その後、葉の生い茂った小道をかき分けながら進んで行き、川沿いの細い道に出た。
左斜めの方角から、白い服を着た僧侶のような人が数人、こちらに向かって川の橋を渡ってきた。
私は、同行していた人とその僧侶達のもとに向かった。
その途中、僧侶の中でも偉い(と思われる)僧侶が「副僧よ、こちらに来なさい」と言っていた。
副僧とは、同行している人のことである。
私たちは、その偉い僧侶のもとに行くと「~(ホワイトだったか)キュアの~(コントとかギャグとかそんなニュアンスのもの)」と言い、私と副僧はお笑い披露することとなった。
私は頭の中で「心臓を打つ」という動作を、ビニールボールを使って表現しようと考えた。
副僧からゆっくりボールが渡され、それを私が目の前にいる僧侶(女性)の心臓のあたりめがけて投げる。
渡されるボールが徐々に早くなり、それに伴い投げる早さも速くなる。
この動きを血流に見立てての行動であった。
私は、真顔で女性の僧侶に投げつける。
するとその僧侶は、「私が心臓かよ!!」といいながら左に移動していたが、私の照準は正確であり、はずすことはなかった。
しばらくやった後、次のお題にうつることとなったが、このネタが面白かったらしく、その女性は思い出し笑いをしていた。

夢③

こんな夢を見ました。

私は男の人と一緒にいた。
その男は、2冊目の”デスノート”を持っていた。
私は、その場にあった3冊目のデスノートを拾った。

(場面が変わり)私は別の男と話しをしていた。
その後、また別の男と話をしていた。その男は軽トラの運転席に座っており、容姿は老け顔の高校生のような顔立ちをしていた。その男とは、話の気が合うようだ。

客として行ったコンビニで、また別の2人の男と話した。
私は、彼らを脅していた。
しかしそれは、彼らの身を案じてのことだった。
それは、近くに包丁を持った女性いる気がしたためで、この2人を守るためである。
その後、家(マンション)の扉を開けた時、近くで爆発があった。
その瞬間、コンビニで話した2人のうちの1人が、その女性にやられたのではと察知した。
もう1人は安全である確信があった。
何故なら、コンビニは安全な場所であり、私のかわりに店番を任せていたからだ。
変わってもらった理由は「めんどくさいから」であった。
2人の安否が気になったので、爆発現場に行こうとしたとき、イヤな予感がした。
その女が、家に来てみんなを殺すイメージが頭をよぎったからである。
たまたま家にいた弟の友人(実在しており、私より強い子)に留守番をしてもらった。
その際に「~という女性は家に入れて良いが、それ以外の人は絶対に入れるな」と言い含めた。
玄関越し(つまり、玄関の扉を開けた状態)で話しをしていたため、視線を向けずに階段から誰かが上がってくるのが分かった。
上がってきた人は二人で、ボーイスカウトの教え子(女の子)とその父親らしき人だった。
私の近く(3mくらい)まで二人が近づいてきたところで、私の携帯がなった。
その相手は目の前にいる女の子で、「何処にいる?」と言ってきたので、私は彼女を指差しながら「ここにいるじゃん」と言った。
そして、更に近づいたところで父親らしき人と挨拶をして、家を出た。

東北地震の募金、有難うございます

今日はボーイスカウトでした。

少しでも早い復旧と安定を願い、都内某所で募金活動をしました。

私も現場で活動しておりましたが、短時間ですごい金額になりました。
この場を借りて、改めて御礼申し上げます。

募金にご協力いただきまして、本当に有難うございます。

さて、今回募金活動をする前に、子供達に「自分達が出来ること」を考えてもらいそれを告知ボードとして使う紙にイラストを書かせました。

その多くのイラストには、手を繋ぐ人たちの絵が書かれてました。
きっと、募金というキーワードが強かったせいかも知れません。
しかし、今の日本に足りないのは一線入り込んだ「絆」だと思います。
手を繋ぐ、手を取り合う、手に触れる、そんなことなんだと思います。

それは、お金をいくらいれたから”良い”ということではなく、自分に出来ることを行動に移すということです。
それは共に苦しめというのではなく、共に戦おうというものです。

どうか、今自分達に出来ることを行なっていただきますよう、心からお願い申し上げます。

銀魂が人気な訳

私も大好きな人気漫画「銀魂」。
まったくダメダメな主人公、坂田銀時を中心に繰り広げられるギャグ漫画。

この漫画は人の心理を的確に突いたもので、主に内面世界を露にすることで共感され、絶大な(?)支持を仰いでいる。
一つ一つの話についても、外面的な面白さと内面的な面白さを持っている。
中でも、ストーリーものは人の意識と無意識にかかる葛藤を描いているのではないかと考えられる。

今後、「銀魂」についての心理的考察もまとめてみたい。

筋違いの店員

ただのグチなんですけどね。

私の店でも、お買い上げに制限がかかるようになった。
当たり前なんですけれども。

この制限を取り締まっている店員の一人が、制限以上の数量を仕事上がりの際にもってきた。

当然、跳ね除ける私。

いつもの調子でにらみをきかせるパートの主婦。

私は断固として売らなかった。
当たり前でしょ。
その人に子どもが何人いようと、その他の人も同じように大切な人がいるのだから。
それを、当店の店員だからといって、許す訳にはいかない。

私がレジから離れると、別の店員が売ってしまった。

それを見た私は、それから制限無しで販売しました。

私は筋を通して副店長に怒られましたが、悪いと思っちゃいません。

悪いのは店のこういった体質だと私は考えます。

タイプ論②

外向型(裏)には、根強い自己中心性がある。

意識では相手に方向づけたことにより、無意識には自分の欲求や要求が抑圧されている。
これは、自分に向かう心的エネルギーの蓄積であり、これがある量を超えるとこの構えが表出する。
フロイトは無意識について、「願望することしか」出来ないと述べているが、外向型の無意識に関してはぴったり当てはまるとユングは述べている。
この欲求が、外界の世界で許容できないだろう。
例えば、お客のために尽くしてきた人が、自分が広めたいと思っていた物や事を無理強いするという行為をする。

こういった欲求は、外向型の(表)にとって補償的な性質をもっており、これが意識から無視されたとき無意識の構えとして表出する。

夢①の解釈

先日の夢①と②は連続した夢だと考える。

私は元彼女を「性欲またはその対象」と連想していた。
しかし②の夢では、「甘え」という連想が強く感じられた。

さて、①においての考察をしてみたい。

元彼女を何と捉えるかが非常に難しい。
彼女は嫌がっているのを無理に私がボディタッチしている。
例えば性欲とするならば、にすがろうとする私に対して、「あなたがすがるのは、これではない」ということかと考える。

私が彼女の(夢の中での)思いを知りながら、続けているところから私は、その行為を意識しているのだろう。

ふいに見えた、「へんな店」も何を指すのか不明だが、その店に”入る”方法は知っている。
それだけで十分なのだろう。

野菜が出てきたのは、恐らく実際に野菜不足だったからかと考える。

弟を自分の自慢できること、親を包容力と解釈し、次の段階に向かうためにホームで電車を待つ。
しかし、座る位置については今のところ分かっていない。

夢②

個人的にはかなり強烈な夢を見ました。


とある部屋に窓から入った。
元彼女の部屋だった。
この部屋の間取りは、以前から知っていた。
私は月明かりのみの暗い部屋の中で、落ち着き払った態度ですがる彼女を説得していた。
途中、トイレに行きたくなり手洗いを借りた。
内装は古めかしいが、大雑把に改装がされており清潔感はあった。
床にはすのこ、天井には下着が干してあった。
手洗いを終え、戻ると彼女は掃除をしていた。
この部屋を知っていた私だが、別の部屋への入り口があることは知らず、少し驚いていた。
私は彼女に「この家にこんな扉と部屋があったんだ」というと彼女は、
「しー。ここは管理人の部屋だから使えないの」といった。
私は、すぐにもとの部屋に戻った。
彼女も戻ると、私はなだめるかのように彼女を抱擁した。

新たな地点

今日は弟の卒業式だった。

私は見に行ったわけだが、多くの卒業生が泣きながらの式であった。

彼らが、この中学校生活から”仲間”という感覚を学んだ様子が分かる式だった。

格式ばって少々大人の手を介入させた感は否めないが、式典は社交辞令的な要素も必要なのだろう。


ところで、泣く子がいれば泣かない子もいる訳で、思いも様々だろう。
彼らには、何故その状態が現象が自分の身に起きたのかを、考えることを期待したい。

ともかく、日本の希望たちよ、卒業おめでとう。