セントライトから23年ぶりに、シンザンが史上2頭目の三冠馬になったのは、東海道新幹線が営業を開始し、東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年である。


  その翌年に秋の天皇賞と有馬記念を勝ち、史上初の五冠馬となって、ミスターシービーやシンボリルドルフが出現するまで、競馬サークルの目標は長いこと、「シンザンを超えろ」だった。
明け4歳(旧年齢表記)になったシンザンが或る朝、調教のあとに脚を引きずり、爪から血を出している。調べると、飛びが大きくて前肢と後肢の蹄がぶつかってしまうのが原因だった。


 それから武田文吾調教師の苦労がはじまった。脚に布やゴムテープを巻いたりしたがうまくいかない。装蹄師とも知恵をしぼって、独特の蹄鉄を作った。それが世にいう「シンザン鉄」である。


  シンザンは旧3歳11月にデビューして4連勝したが、クラシック候補としての呼び声はそんなに大きくはなかった。その証拠に関東初登場のスプリングSは6番人気。そこでの勝利が皐月賞でシンザンを1番人気にした。


  後年、荻伏牧場の応接間で私は何度か文吾師と会っている。
「何がいちばん印象的でしたか?」


  そのときは昔話としてのシンザンのことだがそう私が聞いた。
「姿勢を正すという言葉があるやろ。あの馬と向きあうとな、私は思わず姿勢を正さなあかんと思った。大レースを勝ちだしたあとやないで。まだ1勝か2勝のころや。気品いうんか、あの馬の眼には、まっすぐな光があったな」
 と文吾師が言ったのを私は忘れていない。
「ナタの切れ味」と文吾師はシンザンの強さを表現した。「負かした相手を徹底的にやりこめずに、明日の希望を持たせた紳士的な馬や」


 2着馬との差は少し。しかし必ずゴールポストをシンザンは先頭で駆け抜けていた。

競走馬の能力の高さと脚部故障の不安は、哀しいかな、まま比例する。サクラローレルは、その典型のような馬だった。平成6年、ナリタブライアンの強さに沸いた旧4歳春のクラシックシーズンは、右後肢の球節炎に泣かされ、リタイアした。しかし、秋に復帰してからは、一戦ごとに力をつけて、翌7年正月の中山で日刊スポーツ賞金杯を快勝するまでに成長する。


 ところが、である。ようやく本格化したと思われたその年、天皇賞(春)を目指しての調教中に、今度はなんと両方の前脚を骨折してしまうのだ。普通ならば、その時点で引退を余儀なくされて不思議のない重傷である。けれども陣営の執念とサクラローレルの忍耐強さが、「奇跡」を起こした。


  13か月もの休養を経て、復帰戦の中山記念をいきなり制すると、次走の天皇賞(春)をも豪快に差し切って、ものにしたのだ。


 この栄冠は、ナリタブライアンやマヤノトップガンといった強豪を退けてのものだけに価値があった。それからも、サクラローレルはライバル馬以前に、自身の脚元の不安とも戦いながら、走りつづけた。そうして、暮れの有馬記念でも強さを見せつけ、あっさりと年度代表馬の座につくのだから、恐れ入る。


  掻き込む力の強い、独特のフットワークの持ち主だった。"重厚感あふれる切れ味"が魅力だった。その血統的背景もあいまって、パワーを要求されるヨーロッパの芝コースでの活躍を見てみたい、と思わせる馬だった。わたしたちファンの描くその夢は、じつは陣営の人々が強く意識していたのだと後に知ることになる。


 9年の天皇賞(春)(2着)のあとの休養を挟んで、サクラローレルは、フランスへと渡ったのだ。もちろん「凱旋門賞制覇」を夢見ての旅路である。だが、怪我だけには勝てなかった。ステップレースのフォワ賞(ロンシャン競馬場)のレース直後に右前脚屈腱炎が判明し、ついに引退が決まったのである。


 残念な結果ではあったが、しかし、これほど大きな夢を抱かせてくれた馬も珍しい。諦めずに挑戦すること。その大切さをわたしたちに教えてくれたサクラローレル。厳しい冬の時代だからこそ、いま改めて静かに感謝を捧げたい。



公立試験が2月18日にありました。



とりあえず中学生なんで受けてみました。



高校名はA高校。



自慢じゃないですが、学区トップ校です。



緊張してあまりできませんでした…



やっぱり、自信がなかったからですかね…