私の世界平和
核兵器のない世界にする方法は本当にないのかな。
学校の授業を出ずに、談話スペースで今まで平和だとか戦争だとか、そんな話題を一度もしたことのない友人の口からそんな言葉が出てくるなんて、予想だにもしない出来事だった。
もうそんな話題はもう議論され尽くしていることだから、考えることは無駄ではないけど、素人の私たちが考えたって答えは出てこない。第一、たくさんの専門家が一生を費やして研究しているテーマなのに、実際に実現できていないのだから。
答えは出てこないであろうことはわかっている。だが、私はそのテーマについて深く考えざるをえない状況になる機会がある。それは海外を旅しているときだ。
ボリビアの国境なんて誰の目にも見えない荒野の真ん中に、国旗をまもる警備員がいた。次のルートについて聞いてみると、この先の町ではここの宿に泊まったほうがいい、温水シャワーも出てグッドだ。
彼の話すこの先の町というのは、隣国チリのことであり、チリという国の良さをインディヘナの先住民特有の日に焼けた肌をしわくちゃにしてまるで自分の国のことのように偉そうに話す。
自分の国だけではなく、他国の良い部分についても自信満々に話すことができる。あの時あの場所では少なくとも、お隣同士の平和の空気が流れていた。それがつながっていけば、世界平和だ。簡単なことだ。
世界平和という大それたことも、自分が経験として、自分の言葉で語ることさえできるのなら、それはその人にとっての平和で、ほかの人たちも同じように考えることができればいいだけのこと。
ハンドルとこの腕をつなぐものとは
白線を越えてしまい、慌ててハンドルを切る。
今日は人生初の車の運転。2時間の教習のうち、半分はAT、残りはMT車に乗車することになった。
今日まで20年間、祖父の家に行く時、部活の試合の送り迎え、大雨や吹雪の日など、いつも私は助手席や後ろの席に座り、そしてその時は必ず誰かが私のためにハンドルを握っていてくれた。
早く誰かの手を借りなくとも、自分の運転で好きな場所へ行ってみたいという願望はあったが、なかなか今日まで免許をとるために教習所へ通う時間と金を用意することができなかった。
そして今日はそんな私の願望をかなえる大きなステップにもなった日である。
興奮しながら一時間の技能講習が終わり、次の時間になり、再び満足そうにハンドルを握る。エンジンをかけ、車は走り出し、最初のカーブを右へ曲がろうとする。
その時。
車は大きく白線を越え、もう少しで対向車にぶつかりそうになる。事故の恐怖が頭をよぎる。
なぜこんなことが起きてしまったのか、初心者だからと言ってしまうと片付いてしまうが、少なくとも私は前に乗った車と同じ方法でハンドルをきったはずである。
それを考えていたときに、教官が言った一言。「人間と同じなんだよ。10人いれば、10人全員が違う性格をもち、違う癖をもつ。その中で一人が優れているとかじゃあなくて、その一人一人に合った方法がある。車もおんなじさ。」
この時の場合、その車の性格や癖を私が考えた上で、それに自分から合わせないといけなかったのであろう。
利便性がますます追及されていくこの時代では、ますます私たちの何か行動に移す際の、自分から歩み寄ってその環境に一番合った存在へと自分が変わる能力が次第に弱まっている気がする。
自分以外のこの世の中のすべては、自分という尺とは違う尺をもち、それぞれ違う尺同士が妥協しあい、共有する社会のルールを前提に、それを基準にして活動していければと思う。
そしてそれは決して、自分を押し殺すことではないはずだから。
学校サボってクライマーズ・ハイ。
クライマーズ・ハイ。
それは、登山中にどんどん登ることに夢中になっていき、本当の自分の能力以上に行動できる自信が出てきて、
疲れなどは感じなくなっていく状況。
他のサイトにも書かれたいたが、横山秀雄はきっと男という生き物は、結果が何であれ、そのクライマーズハイの状況を仕事という環境においてそれを感じることができれば幸せなんだよ。価値のあることなんだよということを言いたかった気がする。そして、働くとはいったい何なのかについても作品中に迫っている。
きっと公務員というみんながみんな死にものぐるいじゃない、常にどこか逃げ道とか、守りに入ることを前提にしている人の割合の多い組織なんかじゃあ、クライマーズハイにはなることは、仕事内容いかんにしろ経験することは、必然的に低い確率な気がする。だったら、どんな民間でもそれを経験することはできるのかと聞かれたら…まだわからん…。
昨日の患者会で、博美さんの言葉に、「今の企業に一生勤めるかどうかなんてわからないし、今自分のやりたいことに向かって進むべき。今しか夢なんて見られないのだから。」と。あの人だから、僕の境遇を分かって話してくれたのか、それとも世間一般のことを話してくれたのかはわからない。だが、アドバイスよりも何よりも、別に変に泣きたい気持ちで相談したいとかそういう感情がなかった。ただ良かったことは、どちらかというと平常心を保っていたあの場が、最近のどんな飲みの中でも、楽しいとかどうとかじゃなくて、なんだか安心できたのだ。
