効率という一元的な基準に二度と支配されない新たな倫理と規範を打ち建てなくてはならない。だが私たちはこれらいっさいが村上にとってもっぱら言語の問題として捉えられていることを見逃してはならない。私たちの倫理や規範の崩壊は、なによりもまず、微妙な陰影や繊細な論理の上に成り立つ言論が、恥知らずなまでに凡庸で粗悪なレトリックによって威圧されることからはじまるのだ。その意味では、かくも果敢な村上の発言をただの反原発の一点に倭小化して伝えた我が国の多くの報道や、やはりその一点のみに賛否を集中させたインターネット上の議論は、村上が批判しているのと同じタイプの言論を垂れ流したにすぎない。マス・メディアを介していまや私たちを四方から取り囲んでいるように見えるそうした言論の多くは、ラカンがメトニミー型固着をそう呼んだのと同じ意味において倒錯的であると言わねばならない。性的トラウマの謎めいたシニフィァンと、現に紡がれているシニフィァン連鎖のなかでこのシニフィアンが代理をする項とのあいだに閃きが走る。これはひとつのメタファーであり、そこでは肉体や身体機能がシニフィアン要素として用いられる。
美しい自動車について





子供からもはや信頼されなくなった親は、子供の理想世界というコミュニティの活発な一員になったようなものだ。子供は親と一新にいることを楽しむかもしれないが、子供は親を信頼しない。関係を回復する唯一の方法は、子供と話し、子供の話に耳を傾けること、そうしながらお互いが接近することである。親を信頼していないと思える子供と接していて親がまちがいを犯したら、すぐに親はまちがいを認めるほうがよい。あなたは子供に完全であることを期待しないし、あなたもまた完全ではない。過ちを犯すことを認めることは、信頼を確立し、また回復する。自分のまちがいをすぐに認める親は、常に正しくまちがいを認めようとしない親よりも、子供の目には、はるかに信頼に値する親に見える。子供は親を信頼する必要がある。親を信頼できない子供は、流砂の上に住んでいるように危ういのです。子供が10歳になるまでに、子供が自分の選んだものに責任を持つ覚悟を子供に教え始める。責任を取るということは、罰を受けるということではない。子供を子供部屋に行かせることは、コントロールのために親が必要とする最高の限度である。選択理論を使った子育てには罰はないのです。罰は究極の外的コントロール心理学です。