効率という一元的な基準に二度と支配されない新たな倫理と規範を打ち建てなくてはならない。だが私たちはこ れらいっさいが村上にとってもっぱら言語の問題として捉えられていることを見逃してはならない。私たちの倫理や規範の崩壊は、なによりもまず、微妙な陰影や繊細な論理の上に成り立つ言論が、恥知らずなまでに凡庸で粗悪なレトリックによって威圧されることからはじまるのだ。その意味では、かくも果敢な村上の発言をただの反原発の一点に倭小化して伝えた我が国の多くの報道や、やはりその一点のみに賛否を集中させたインターネット上の議論は、村上が批判しているのと同じタイプの言論を垂れ流したにすぎない。マス・メディアを介していまや私たちを四方から取り囲んでいるように見えるそうした言論の多くは、ラカンがメトニミー型固着をそう呼んだのと同じ意味において倒錯的であると言わねばならない。性的トラウマの謎めいたシニフィァンと、現に紡がれているシニフィァン連鎖のなかでこのシニフィアンが代理をする項とのあいだに閃きが走る。これはひとつのメタファーであり、そこでは肉体や身体機能がシニフィアン要素として用いられる。
美しい自動車について
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