先週、ばあちゃんが96歳で亡くなりました。
三連休は通夜に火葬、葬儀でした。

共働きの両親だったため、男4人兄弟はずっとばあちゃんに育ててもらいました。

今回の訃報を受けて、私は栃木、末っ子は兵庫のため、親からはコロナ警戒でくる必要はないと言われました。また、次男は父と折り合いが悪く、しばらく音信不通でしたが、今回4兄弟全員が揃いました。

看取り介護で、施設に入っていたばあちゃんには、コロナのせいで施設は入場禁止。ずっと会えないままで、人生の最後を迎えたのはすごく悔しいです。
また、葬儀も他の参列者に配慮して、県外から来た、私は参列できませんでした。

コロナは仕方ないと思って過ごしていましたが、こんな事が全国で起きているのか?と凄く悲しく思いました。

末っ子も、最後に火葬になる前の顔を見たいと飛んではきたものの、人との接触を避けて自宅にも泊まらずビジホ泊まりでした。

大正、昭和、平成、令和と約一世紀を生きたばあちゃんは、最後の時に寂しくなかっただろうか?
コロナに怒りを感じます。

兄弟の誰もが、聞いてもいないけど、ばあちゃんには誰よりも世話になった、ばあちゃんだから、何としても会いにきた、そんな言葉がポロポロとでてきて、私と同じ考えなんだな、と再認識しましたし、兄弟にとってばあちゃんの存在がどれだけ大きかったのか、強く感じました。

火葬に向かう直前の読経後、遺体のまわりに花を散りばめる時、ばあちゃんの姿を見て感謝しかなかったです。本当にありがとう、ありがとう、そればかりで涙が出ました。

火葬されて骨になってしまったばあちゃんは、本当に小さくて軽くなり、人の人生の終わりを強く感じました。

でも、もし死んだらばあちゃんが待っていてくれるのかな?そう感じると死ぬことはあまり怖いと感じなくなりました。
歳を重ねて色んな別れを経験した人は、こんな感覚で死を受け入れられるようになるのかもと思いました。また、親より先に死ぬことは、こういう意味でも辛いことなんだなと感じました。

人生には限りがあり、終わりが来ると言う事を再認識しましたし、だからこそ、やりたい事をどれだけやりきるのか、そこに想いを新たにしました。

それに本当は今頃海外を巡る船の中でしたから、ばあちゃんの最後に通夜、火葬に出れたのは幸運でした。全てのことに意味があると思います。

しんみりするブログとなりすみません。
家族はぜひ大事にしてあげてください。