以下、記事中の大分県小岳は清田発祥の地。
同じく、記事中の野尻さんと、太郎のお父さまは若い頃会った事があるそうです。

// 売りに出た中津城 // 大分合同新聞

~ 清原芳治のコラム「風の座標軸」~

 新聞で中津城が売り出ていることを知った。城が売りに出るというのは確かに日本では珍しく、ちょっとした話題ではある。

 中津城は旧中津藩主奥平家の子孫昌信氏が昭和39年に再建した。再建と言っても以前あった建物とそっくりの建物を建てたわけではないので、正確には模擬天守閣というべきである。どだい、中津城に天守閣があったかどうか定かではなく、専門家の間では否定的な意見が多い。昌信氏は奥平家の第17当主で、折からのお城ブームに乗って先祖の夢を叶えた形である。今は代替わりしたであろうが、確か当主は天守閣に住んでいると聞いたことがある。

 中津城が売りに出されたということは、入場者が減って維持が困難になってきたからであろう。何度か訪れて奥平藩の武具その他の展示品を見学したことがあるが、確かに入場者は少なかった。山国川の河口の扇型の場所にあることから扇城と呼ばれる平城だが、市街地や周防灘を一望できる眺めは素晴らしかった。

今のところ中津市に購入してほしい、という要望があるようだが、財政難の折でもあり、中津市も二つ返事に購入を決めることはできないのも無理はない。しかし、やはりここは少々の無理はしても中津市が購入して市民の財産として残すべきだろう。というのはこの中津城の歴史的文化的価値は別にしても、築後40年以上経てすっかり中津の風土に溶け込み、シンボル化しているからである。

城内を散策し、天守閣に登ると、あたかもこの中津城がずっと昔からあって長い歴史を見続けてきたように思えてくる。それは勝手な陶酔であり、錯誤でもあるのだが、それはそれでいいのではないか。それにいちいち文句を言っていたら、日本各地のほとんどの城に文句を言わなければならない。というのはほとんどの城が残されていた絵図面などを参考にして再建されたか、さして根拠のない資料をもとに建築された模擬天守閣だからだ。県内では杵築城が後者の例で、建設された当時賛否両論が湧き起こったものだ。

江戸時代からの城が残っているのは全国でも数えるほどしかないはずだ。明治4年の廃藩置県の際に政府が廃城を命じたからである。県内でも岡城を初め大部分の城がこのとき取り壊された。今考えれば歴史的遺産をもったいないことをしたものだ、とも思うが、藩の独立性を奪い中央集権国家を建設するにはやむを得なかったのだ。

現代人の感覚からすれば、城は人の世の栄枯盛衰と歴史ドラマを彷彿させる遺産だが、当時は藩治のシンボルであり、したがって中央政府からすればいつ反政府活動の拠点にされるかわからない危険な代物であったのである。

 さらに福沢諭吉のような西洋文化による日本の近代化を推し進めようという立場から見ると、尊皇攘夷という保守的な思想のシンボルに見えたとしても無理はない。福沢は幕末維新の騒乱に中津藩が巻き込まれないように、すべての武器を売り払って無防備中立となることを提唱した。下手に弱小な軍備を持っているとどちらからか攻撃されて犠牲者が出かねないので、むしろ丸腰の方が安全だと説いたのである。その影響からか中津城の廃城は他に先駆けて行われた。

 そんな消えてしまった城を再現しようという動きが昭和30年代になって出てきたのは、敗戦による日本文化の否定に対する反発から来る一種の民族のノスタルジアであったろうか。

 中津城が売りに出ていると知って、もう20年ほど前に元県議の故野尻哲氏が大分市戸次の小岳山という山に「小岳明社城」という城を建設したことを思い出した。明社は野尻氏が主導していた「社会を明るくする運動」から取ったものだ。もともと先祖が城を建てていたところだそうで、自宅を処分した金で山上に自宅兼用の城を建てて大いにご満悦だった。だが、なにしろ不便な場所で暮らしにくく、野尻氏が亡くなった後、家族は城を持て余していた。いまはどうなっているか知らない。

 今度の中津城の件もそうだが、城を持つということは外から見るほどいいものではないのかもしれない。