昨日、我が家に新しい車が来た。一昨日には今までの車にお別れをするつもりで県内をドライブして、沢山の写真を撮った。入れ替える、乗り換えると言うことは、新しい車に出会えることの期待や喜びがあると同時に、以前の車と別れる寂しさと罪悪感が残る。

 物事に触れたり、その事を語ったりする時、多くの場合は正の感情と負の感情の両面が見え隠れする。これは、将来や未来、たとえすぐ近くでも『この先』に対する不確かさがあるが故の葛藤だと言っていいだろう。果たしてこの選択は正しかったのか、後々幸せだったと言えるのかどうか、誰にも分からないのだから。


 青森県の金木に生まれた太宰治の文章の中に有名な一節がある。『選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり』という文章は、彼のデビュー作である短編集の中の『葉』に登場する。フランスの詩人ヴェルレーヌが残した言葉を引用しているものだが、多くの人は『太宰自身の文学的才能故の正と負の感情』と捉えている。自分自身の事を才能に『恵まれている』『選ばれている』と表現できること自体がすごいと書いている人もいる。

 僕の考察は違う。太宰治の生家、津島家は旧金木町の大地主であると共に、金貸しだった。その資産と家名の大きさは未だに健在で、代々国会議員を輩出している。

 太宰は、裕福で瀟洒(しょうしゃ)な生活、何不自由の無い家庭に生まれ育った事を『選ばれてある』と重ね合わせたと思っている。そしてすこぶる裕福な家系に生まれたことにより、他の若者とは桁違いの文化的生活と未来への漠とした不安が存在するが故に、彼(か)の一節を初お目見えの短編集の冒頭作の冒頭に持って来たのでは無いかと。謂わば、読者に対する自己紹介的な一節とも言えるのでは無いだろうか。

 太宰譚の中にこんな一文がある。『太宰は生まれた家が裕福であることに誇りを持っていたと同時に、その生活が金貸し業によって成り立っている事に世間に対する恥ずかしさを感じていた』。出所も由来も全く記憶していないが、この文に触れた時に、『選ばれて』の一節が登場した理由にぴったりはまり込んだ。


 物事には悉(ことごと)く表裏がある。そして、その表と裏のそれぞれに対して人は感情を抱く。


 悩みは尽きないものである。