昭和も盛りの頃、幼い子供の服と言えばどんな様子を想像するだろうか。少しだけつぎの当たったズボンにサスペンダー。シャツの袖の裾をまくって、ズボンのポケットにはゴム鉄砲。Y字の形で上の両端の部分を繋ぐように太目のゴムを緩めに張ってある。で、小石を包み込めるように厚手の布素材をゴムの真ん中に付けてある。僕達にとっては当たり前の格好であり、当たり前のおもちゃだった。

 しかし、外食となれば話は別で、キレイなズボンか半ズボンとキレイなシャツに身を包む。当然袖はまくらない。半ズボンと長袖のシャツが多かった様に感じる。


 行きつけの洋食レストランには、月に一度連れて行ってもらった。青森市内を、港の曲線と平行に国道4号線と7号線が東西に伸びている。その国道沿いの青森駅近く、古川跨線橋を繁華街側に降りてすぐの、通りの山側にそのレストランはあった。

 階段で二階に上がるとレジスターがあり、スタッフが席に導いてくれる。僕達家族のことは覚えていて、僕もとても可愛がってもらった。小学校に上がる前の5歳から、小学校に上がって8歳まで、毎月の様に訪れた。

 ポークソテーやエビライなどのミックスフライ、ハンバーグなどが思い出される。ナイフとフォークの使い方も、家で教えてもらいながら、このレストランで実践していた感覚だ。ナイフとフォークで特に難しかったのは骨つき鶏もも肉のグリル、いわゆるレッグだった。たまに挑戦して少しずつ上達して。最後の頃には、骨から上手に身を離して食べられる様になっていた。

 その感覚は未だ健在で、滅多に使わなくなったもののナイフとフォークに苦労することはない。今ではレストラン側でもナイフとフォークに加えてお箸も準備してくれているので、それはそれでありがたい事だとも思う。


 食事を済ませると、会計の額がいくらになるかを暗算で計算した。父のビールなど飲み物やら何やらを加えると十品くらいにはなるが、一生懸命暗算した。正解率は3割ほど。ウェィトレスのお姉さんに金額を伝えて、合っていればくしゃくしゃの笑顔で褒めて喜んでくれた。


 8歳に引っ越して次第に足が遠のき、疎遠になってから少しして、閉店したと聞いた。


 とても寂しい瞬間だった。