フォロイーさんの投稿で、ある絵本を読んだあとモヤモヤが治らないと綴っていた。その絵本とは、はせがわゆうじさんの『もうじきたべられるぼく』。子牛が主人公で、食べられて消えてゆく命をかかえるその子牛が目にする情景と揺れる感情が描かれる。
昔、ずうっと昔、僕が子供の頃、毎週日曜日の夜に日立提供の『すばらしい世界旅行』が放送されていた。色々な国を訪れるのはもちろんのこと、全く知らないアフリカの原住民の姿を放送したりもした。
時折、野生動物の生態、特に肉食獣の捕食シーンも流れた。ライオンやチーターが鹿の仲間を追いかけて牙を立てる。とても残酷なシーンだ。そして、子供たちも集まってきてみんなで分け合って食べる。残酷に見えても、命を狩る野生動物には子供もいる。自らの命と共に子供達の命をも繋ぐ。
では人間はどうだろう。家畜として牛、豚、鶏を飼育し、毎日の食卓にほぼほぼいずれかの肉がのぼる。「いただきます」と言った後、美味しく頂く。この風景に悲惨さ、残酷さは感じない。
しかし、食卓にのぼる前にはスーパーにパッキングされて並び、その前、一番最初には必ず屠殺(とさつ)がある。ここまで考え至ると残酷さを感じてしまう。しかし、それが現実だ。
原始、ヒトの先祖は未だサルに近かった頃から、狩をして命を繋いできた。やがて家畜を飼い、その乳や肉を頂く。そして現代にまで至っている。
命を奪って食べることとはどういうことなのか。美味しくきれいに食べきっていれば何も問題ないのか。大豆ミートが栄養的には十分エネルギーと栄養を賄える事も分かっている。大型の家畜飼育だけをやめればいいのか。鶏だったらいいのか。魚の養殖は何も問題ないのか。答えは出ない。
牛肉を1kg生産するためには11kgの穀物が必要と言われる。牛を一頭出荷まで育てる分の飼料で、同じ期間の飢餓に苦しむ人たち何人分に相当するだろう。
僕たちは美味しいものを食べるという欲求を捨て去ろことができるのか。