市町村会議員とは、地方自治体の最小単位である市町村のお金を使い方を考えたり、自治体独自の条例を策定したり、各自治体の首長である市長、町長、村長の政策目的と行動を監視する立場にある。実のところ、首長もさることながら、議員ひとりひとりの政策実現力と倫理観が問われると僕は思っている。
自民党の西田参議院議員がひめゆりの塔の資料館の説明展示について、歴史を歪めていると発言している。馬鹿らしくて余り言いたくないが、簡単に。
日本軍は、本土決戦も厭わないと謳いながらも、出来るだけその時期を遅らせる為に、沖縄に防衛線を張る。そして、上陸しようとしたアメリカ軍の激しい攻撃に晒されて、罪の無い幼い少女たちが多数犠牲になった。その現場として最も被害が甚大だったのがひめゆり学徒隊である。
西田氏は、日本軍が多数沖縄に入り込んだ為に犠牲者が出て、一方で、アメリカ軍が戦闘を終わらせた事によりそれ以上の犠牲が出なくなったと理解して、日本軍を悪者としてアメリカ軍を解放者として展示が為されていると理解したようだ。
勘違いも甚だしい。そもそも暴走した軍閥内閣は戦う事にしか政権の成果を見いだせなくなり、国民の命と財産を無視した圧政を行った。その愚かな執政は、あろう事か国民総玉砕を唱え、沖縄戦での悲劇を生んだ。
個人であれ団体であれ、政治学者であれ歴史学者であれ、軍閥政治の過ちは多数決どころの話では無い。満票で国民軽視の視点で明らかに有罪だ。それを、沖縄に対して日本軍が多数の兵力を集結させたのを悪者扱いする事に意を唱えると言うのは認識のズレが甚だしい。
僕は、20年ほど前に初めて沖縄を訪れた時、ひめゆりの塔を訪れた。展示を観て、悲しさと悔しさと何も出来ない辛さともどかしさで涙が溢れた。
泣けばいいと言うものじゃ無いかもしれない。けれども、人の痛みを自身の痛みの感覚を伴って感じる事が出来なければ、政治家は務められない。
罪の無い、武器を持たない人々が沢山亡くなった。
その一点を見つめ、そして、謝罪する事を望む。