今、参議院予算委員会で予算審議が大詰めである。衆議院を通過したのだから、政府与党としては基本的には修正はしたくないだろう。修正すれば再び審議入りし衆議院を再通過させ、予算案の成立は確実に4月になる。

 しかし、ないがしろにできないある問題が野党各党から盛んに取り上げられて議論されている。高額療養費の負担上限額の引き上げである。立憲民主党でも青森県選出の田名部議員が首相に詰め寄った。さらに、全国がん患者団体連合会の理事が参考人として議案の凍結を訴えた。

 繰り返される各議員から質問に、首相は答える。医療保険制度の永続的な維持も考えなければならないと、引き上げと医療費の縮減の必要性を訴えている。

 どの分野のなんの予算でも、その恩恵を受ける対象である国民の数を考慮しなければならない。医療費の中では誰でも何度でも罹患する、いわゆる風邪のような病気の処方薬は安価でなければならず、対象者が少なければ少ないほど予算の割り付けも躊躇されがちだ。


 しかし、立ち止まって考えてみよう。


 今、高額治療をしている誰かを想像して欲しい。その人が今までもぎりぎりの生活を家族にも強いながら医療費を負担しているとする。このあと、上限額の引き上げによって負担が増えるとしたら。生活が立ち行かなくなる不安と、家族に申し訳ないと思う気持ちで、治療を制限する事を考えるだろう。

 実際にはそうならずに、家族が生活費をさらに切り詰めるなどして応援し、治療を継続できるかもしれない。しかし、もう自分の治療は諦めよう、命を諦めようと考えさせてしまうことだけもおぞましい。ある意味政治の暴力である。


 他に切り詰められる項目は無いのか。もしくは、医療費の幅を継続的に拡大維持できるように、他の分野で永続的に予算を縮小できないのか。


 命を諦めろと言うのは余りにも残酷だ。