読んで下さる方がいると思うと、やはり明日も書こうという気になるし、文章も『てにをは』もしっかりしなければと思う。また、書き続けることで自身の変化も感じる。言葉を選ぶ時間が短くなり、反射的に言葉が出てくる様な感覚がある。


 僕は国語の成績が良くなかった。というか、父はそう思っていた。自分では悪い成績だとは思わなかったが、父は違った。僕の国語の弱点は、文学史や文法や古典だと自分では納得していたが、父は文章の読解力が今ひとつなのではないかと勝手に思い込んでいた節がある。

 中学二年生になると、父は新聞誌面の編集後記(地元紙東奥日報では『天地人』)を読みなさいと言った。これは中々に面白かった。年頃には合わない話題と表現だが、編集者が自身の思いを書くというのが面白かった。毎日、何某かの感想文を読んでいる様だった。

 高校生になると、一向に改善しない成績に痺れを切らしたのか、社説を書き写しなさいと言われた。2日くらい試しただろうか。流石にこれは時間の無駄だと感じ、やめた。やりなさいと再び言われてもやらなかった。

 文学史や文法や古典は、単語を覚えようとして時間を取らないと成績には反映しない。そんなものは受験の間際にすれば済むことだと割り切っていた。普段からほとんど勉強をしない僕が覚えていようはずがない。しかし、そんな事を父に伝えると雷が束になって落ちてくるかも知れなかったので、何も言わなかった。


 今、仕事にしているわけではないにしても、こうやって書いている。僕にとっては、読んで下さる皆さんに僕の好きな分野のことを伝えられるのは嬉しいことだし、書いている時間が生活の中の楽しみになっている。


 これからも細々と書いていきたいと思っているので、よろしくお付き合い頂ければ幸いである。