昨夜、久しぶりに虫の鳴く声を聞いた。連日の暑さで夜もエアコンをかけて、ここ数日は台風の影響もあり、窓を閉めて眠っていたためだろう。
開け放した窓のすぐ下ではコオロギの仲間であろうと思われる鳴き声、隣のお宅の塀越しの庭では鈴虫だろうか。虫の音はお向かいからも聞こえ、5種10匹と思われる程の賑やかさだ。
子供の頃の僕は、御多分に洩れず虫に興味があった。でも、今と同じで苦手な気持ちも強かった。カブトムシを手のひらに乗せた時の引っかかる感じの足の棘、刺されたり噛まれたりするのではないかという漠然とした怖さ、そして何より人間を含むいわゆる動物たちと大きく異なる外骨格という構造。小さいというのもあったかもしれない。華奢というか壊れやすいというか。
僕の子供時代、昭和40年代は、歳の差2、3歳の友達は当たり前で、5歳くらいから中学に上がるまでの近所の子供たちが連れ立って遊んでいた。中学生になると、近所でこぢんまりと留まっていた自身が生きる『世界』が突然広がり、近所の年下の子達と遊ぶのが気恥ずかしくなって自然と遠ざかる。ご近所さんの新陳代謝である。
虫の事は大概遊び仲間の年長のお兄ちゃんから教えてもらった。トンボはゆっくりと近づきながら目の前で指をくるくる回しながら近づくと捕まえられるとか、毛虫に触ると指が腫れるとか。トンボの腹に細い縫い糸を結んで、まるで犬の散歩の様に目の前を飛ばせたりもしていた。僕はトンボが何となく可哀想でできなかったけれど。
そんな中、しょうゆバッタのことも教えてもらった。捕まえて指で挟んでいると、黒い液体が口から滲み出てくる。それは黒い球の様にふくらみんでゆく。それだけなのだが、お兄ちゃん達は『しょうゆが出てきた』と言ってはしゃいでいた。
僕も一人の時にしょうゆバッタを捕まえた。ところがこの子は『しょうゆ』を出さない。不思議に思ったのか、それとも、お兄ちゃん達ができて自分ができないのが悔しかったのか覚えていないが、恐る恐る挟んでいる指に少しずつ力を加えていった。やがてその液体は現れ、見られたことに満足した僕は草の上に放した。その子は動かなくなった。僕はしくしくと泣いた。仲間に泣き虫と思われるのはとても嫌だった。幼いながらも男の自覚は芽生えていた。でもその時は周りに誰ひとりいなかった。お兄ちゃん達に知られることなく、たったひとりで泣いた。殺してしまったという意識ではなく、命を壊してしまったという感覚。
それ以来、僕は他のバッタやコオロギも含めて一切捕まえなくなった。
虫達が鳴いている。その声は、夜が更けるにつれ少なく、小さくなっていく。お相手が見つかったのかな。それとも就寝時間なのかな。部屋の中が大分涼しい空気に満たされたので、窓を閉めた。虫の音がいよいよ微かになった。
皆さんの窓の下で虫は鳴いていますか。
虫の音は皆さんの心に届いていますか。
ゆっくりとおやすみなさい。