最近、ブログ書いてなかったケド、今日は書こうと決めていました。


何年経っても、忘れることはできない、いや、忘れたくはない
東日本大震災が起きた
"2011.3.11"


あの日、
僕は遊助さんのライブを観に、
午前中から九段下にある日本武道館周辺にいた。


あの時の僕は、
今の事務所に入る約1ヶ月前で、ブログやTVデビューもしてなかったから


誰一人、僕のことは知る由もなくて、たくさんの人から声を掛けてもらえることが、まだまだ夢に感じていた時だった。


ぶらぶらしていたら
桜が咲く前で、今年みたいにもう春なのに、晴れてても冬みたいに冷たい風が吹いてて寒かった。


みんな笑顔で、ワクワクしながら楽しげに会話したり、
グッズを買ったり、
写真を撮ったり
とか、していた。

14時46分になるまでは‥


なった瞬間、
みんなから笑顔は消えた。

激しい縦揺れで、

日本武道館の窓ガラスは
激しくガタガタ音を立てて、

でっかい時計塔は左右に激しく揺れて、

今にもガラスが降ったり
時計塔が倒れてきたりしそうだった。


みんな恐怖で叫んだり
腰を抜かしたり、
しゃがんでカバンを頭に当てたりで、

会場周辺は、騒然となった。

揺れがおさまっても
繰り返し余震が続いた。


あの時は、まだスマホはなくて
ガラケーだったからラインじゃなくて、

みんなメールか電話で、
安否の確認と情報収集
をしていた。


僕はあの時、たまたまニンテンドーDSと、DS専用のTVアンテナを持っていたから
すぐに、TVを見てみた。

そしたらどのチャンネルも全て
地震の緊急ニュースばかりで、

初めて、東北沖が震源で
大震災だということを知った。


こういう時、僕にできるのは
何だろう?と思い、


あの時、近くの休憩所が避難場所になり、情報収集できてない人もいたので、

これ、みんなに回してください。と言って、近くの人にDSTVを手渡しました。

そしたら、ありがとうと
言って頂き、内心照れくさくもうれしかった。


会場のスタッフさんから
一時待機していてくださいとのことで、

内心、不安ながら待機していたら夕方前頃には、ライブは中止になったことが流れていた。


電車は全て運休で、帰るにも帰れず、運転再開するのを待って
いた。

しかし、夜になっても運休のままで、いつ再開するのかわからないので、


僕は九段下から自宅まで歩いて帰ることに決めた。


道は、帰宅難民の人ばかりで
ごった返していた。

おなかが空いたからコンビニに入ってみたらどこのコンビニもすっからかんで、

ファーストフードもレストランとかも、早めに閉店してしまっていた。


仕方なく、歩いている人もみんな同じ状況なんだと受け止めて、


冷静になって、食事は我慢してまずは新宿の方まで歩いていった。

夜は、昼間よりも気温が低くて、手は手袋をしてなかったから冷えてかじかむし、

足も冷えて歩けば歩くほど
棒になってきて痛くなるしで、
大変だった。


新宿まで約1時間半、新宿から
青梅街道を約2時間かけて歩いていたら

途中、お茶やおにぎりを差し出してくださっていた人がいて、

少し休憩して、ありがたく頂いたのを今でも覚えてる。


家に着く前に、近所の銭湯に立ち寄って、

着いた瞬間、僕は倒れこみ
また後で来るので、手だけお湯で温めさせてもらった。

足の裏はマメがいくつかできてて、メッチャ痛かった。


家に着いたのは23時半ぐらいだった。


玄関を開けたら棚の上の物は
全て落ちて散乱し、
たんすや冷蔵庫の扉は開き、CDコンポやTVとかも
倒れていた。

散乱したのを1時間ぐらいで
片付けてから徒歩ナビを使って
実際に歩いた道のりを計測してみたら

約18km以上もあり、僕は愕然とした。

僕はこんな長距離を、頑張って諦めないで、一歩一歩、歩いてきたのかと。


今から振りかえると、あの時
歩いた道のりは、これから今、
現在の事務所に入ってからの
芸能活動の道を予兆するかのような出来事だったように思える。


どんな困難も諦めずに、
一歩一歩、歩いていたら
必ず道は開き、辿り着けるということを、神様が知らせてくれたんだなと。


あれから約半年後に銭金に出演して、10月には地震の影響で
亀裂したマンションを建て替えることになり、急遽、引っ越すことになった。

マンションの大屋さんが、
今住んでる家を用意してくださって、無償で引っ越しさせてくださいました。

なので、銭金で写っていた家は
もう見ることはできません。


あの家にはなかった風呂や洗濯機が、今、使えてることが本当にありがたく感じる。



実は、僕は1995.1.17の
阪神淡路大震災も小学5年生の時に西宮市で経験しています。

早朝5時46分に、
激しい横揺れで、飛び起きて
布団かぶって、おさまるのを待っていた。

ベランダから神戸の方を見てみたら赤い炎が空まで激しく燃え上がっていたのを鮮明に覚えてる。

タンスは倒れ、電子レンジは
落ちて破損して、食器もたくさん割れて、裸足で歩くのは危険な状況で、スリッパで歩いて、
寝間着のまま避難した。


電気は早く復旧したケド、
ガスや水道は約1週間以上
止まって、

水は、オカンと近所の公園に
行って、ポリタンクにたくさん給水車から汲んでいたし、

ガスの代わりに、食事は
カセットボンベのコンロや
ホットプレートを使い、

入浴は近所の銭湯に家族で行っていた。

学校も1週間ぐらいずっと休みだった。


11歳、27歳で大震災を経験したことから

あくまでも推測ですが、

今年の1月15日~
40になる2024年1月15
日までの、
30代の間に、また大震災を経験する気がしてならない。


10代よりも前の小学校1年生?ぐらいの頃でも、
東京で震度6ぐらいの揺れを経験しています。


遅くても40代前半ぐらいまでに、また起きそうな予感がしてしまう。

特に、将来必ず起こると予測されてる南海トラフ・東南海地震や首都直下型地震。


僕たち、日本人は震災を経験しないで、一生を終えることは
ほとんど有り得ないのかもしれない。


たぶん、おもてなしとかのサービスが良いことや優しい人が多いのは、

昔から地震をたくさん経験して、みんなお互い助け合いの精神で、頑張って生きてこられたから


記憶として、生まれた時から僕たちの心の中に刷り込まれているのだと思う。


これからも、一寸先は闇だけれど、
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みんなみんな、歩いて生きていけるさ。


ほら、こんなちっぽけなことでも小さな幸せ→      ↓                          


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