117
あれから20年です。
私は西宮で育ちました。ほんの1ヶ月前に母は京都にいる妹のところへ転居したところで、直接をまぬがれました。住んでいたマンションが後の情報で 傾いていた姿を見て 思わず手を合わせました。
当時の私は事情があって西宮を離れ、亀岡の山奥から大阪に車で通勤していました。
揺れは感じなく、トイレに置いていたくまちゃんがポテって倒れていたことを思い出します。あれ? って思ったので覚えています。
テレビのニュースを横目でみつつ「え?神戸すごい火事やん」程度で出勤のしたくして出発、どんどん大阪に近づくにつれ、町並が壊れていき、道が割れ、信号が止まっていて、大渋滞。このままでは会社に遅刻する!と混んでいるところを避け公衆電話(当時携帯なかったので)から電話したらつながらない。
ここで初めて「なにがあったんだろう?」とラジオをつけました。
神戸で地震?
いつもより倍くらいの時間をかけてたどり着いた会社は、
倉庫がつぶれていました。
大阪でも、揺れが激しかった地域だったんです。
となりの会社のテレビを見たら、、、絶句。
大好きな神戸の街が燃えています。
西宮の友達はどうしてる???? 一番のお友達の家に電話しました。
お母様が出られて、みなさんご無事なことを確認したら、体から力が抜けました。(実際はご自宅が損壊していたのですが)
なんとか山奥の自宅に帰り、テレビを見ていました。
あの子はどうしてるだろう? あの人は?あのお店は? あの学校は?
近くて遠い場所で、憂いていたことを思い出します。
そのとき 母から連絡がありました。
1ヶ月前に引越したことを喜んでいいのかどうかわからない と。
「(亡くなった)お父さんが助けてくれたんやと思うよ。」と答えました。
しばらく何もできませんでした。ずっと自宅でテレビ見てました。
しばらくして
近所の方々と一緒に お水や食べ物を運びました。
田舎にあるもの、できるだけ持っていけるものを。車が途中で入れないから、両手に抱えて歩きました。
現地についても何をしていいかわからなくて、
ぼーっとして何もできないまま帰ってきました。
何もできないあのまま。20年が経っていったように思います。
毎年117の今日 同じことを思います。
そして、忘れてはいけないんだと。
生きていると大変なことがいっぱいあるけど、
「今日のこの日は、あのとき亡くなった方が生きたかった日」だと思えば、憂う暇なんてないよ、って思います。