最初に、私は、
自分から命を絶つことは、決して、良いことではない、という風に考えていることを、前置きとして書くことを、
了承していただきたい。
「死にたい。」
「自殺した人。」
世間では、自分勝手だと、言う。
例えば、
「死にたい。」といえば、
「そんなに死にたいなら、生きたくても、死ななくてはならない人に命あげれば。」
「残った人の気持ちを考えていない。」
まあ、そんな感じに答えが返ってくるようだ。
私は、自殺された方のニュースなどを聞くと、
「きっと楽になったのではないかな。」
と、正直思う。
誰だって、自殺なんてしたくない。
しかし、
「死にたい。」
というSOSは、
きっと、何度も、周りに出していたはず。
それに、気付かなかったのに、なくなった人間に対して、
「自分勝手」というレッテルを貼るのは、なんか責任逃れな気がする。
かつて、
「最終的に、守ってくれるのは、家族でしょう?」
なんて、私は、某友人に言われたが、
守ってくれる、家族がいる人間は、本当に幸せだ。
私は、自殺を何度も、図っている。
しかし、生き残ってしまった。
その度に、家族には、散々言われた。
「死んでくれ。」
と言われるたびに、
死ねない自分自身を、本当に、恨んだ。
私が、一度、本当に死にかけたとき、
その当時の主治医から、
「そんなに死にたければ、癌病棟に行きなさい。
みなさん、残された貴重な時間を一生懸命生きている。」
自殺する人間が、一生懸命生きていなかったのか?
私はそうは考えない。
先日、某小児精神科医の話にあった。
「人には、固有の時間がそれぞれあって、自殺した人も、その固有の時間を一生懸命に生きたのではないか。」
死因は何であっても、
その人は、一生懸命に、生きてきた。
私は、ICUでセンター長の医師と、喧嘩したことがあった。
「なんで、生かしたのか?」
それに対して、医師は激怒した、
「生かすのが俺らの仕事だ。助かったのに、生意気な口をたたくな。」
だから、つい、
「生きる権利が人にあるなら、死ぬ権利だってあるだろ。」
なんて、言ってしまった。
「死にたくて、死ねなかった人間の気持ちはわかるか?」
「死んでほしい人間が生き残ってしまった、家族はそのゴミを今後どうするか、しっているのか?」
センター長は、「ばかばかしい。」と吐いて、その場を離れたが、
近くにいた、新人の女医は、考え込んでしまった。
人が生きていたら、きっと、死にたい、と考えることは、あるだろう。
それを、実行してしまう人間を、簡単に「自分勝手」という風に考えてしまうのは、
私個人的には、ただの責任転嫁だと考える。
確かに、自殺遺族の自助グループがある。と
残された家族、恋人、友達など、
それぞれ、きっと、「なんで?」という問いを、一生問うのかもしれない。
しかし、
人は、いつか時間と共に忘れる生き物ではないか。
という風に感じるのは、
私の実家の一族がそういう風に考える人間だから。
とても、優しかった、親せきのおじいちゃん、おばあちゃん夫婦が、
実家の一族の人間のわけのわからない嫌がらせで、
無理心中をはかった。
当時、私は、中学くらいだったかな。
何が、起きたのか、本当のところ、理解できなかったが、
私は、今、大人になり、人間の気持ちが理解できるようになって、
そういった事実を、忘れてしまっている、一族の冷酷さに、正直怖くなった。
きっと、人は、限られた時間を一生懸命生きている。
だから、
何も、わからない人間が、「自分勝手」だと、言い切るのには、何か、府に落ちない。
一応、言っておくが、
自殺を肯定する、という訳ではない。
自殺を図って、家族に迷惑をかけてしまった。
という風に思える人は、まだ、救いがある。
こういう私も、免許書の裏の、臓器提供意思には、ちゃんと、サインしてある。
こんな、どうしようもない人間でも、助かる命があるのなら、
きっと、それが、私の生きてきた意味なのかな、って考えるから。