アンナのコンサート
アンナが最も深く印象に残った出来事は、レオンと共に開いたコンサートだった。
アンナはレオンに興奮しながら話したのを覚えている。
「レオン私、コンサートを開きたいと思って、小さなホールに予約を入れたわ。レオンのピアノで歌って、私が一番美しいと思っている音楽を皆に聴いてもらいたいの!」
「そうか。それじゃ、何か新しい課題を探してそれを軸にコンサートのプログラムを考えるといいね。何かアンナのやりたいことはあるの?」
「まだ、はっきりとは決まっていないけど・・・。」
「まだ時間はあるから、ゆっくり考えていくといいよ。」
アンナは、シャンソンのジャンルに捕われずに曲を選んでいきたかった。
ある日、ジャン・ギャバン主演の古いフランス映画「しがない人々」を観ていて、その中に流れる哀しく美しい音楽に心を奪われた。作曲はジョゼフ・コスマ。コスマは枯葉の作曲家として広く知られている。
歌詞はなく、演奏だけだったが、アンナはこの曲に詩を付けて歌えないものだろうかと考えた。
長距離運転手とその定宿の女中の悲恋物語で、そのコスマの音楽は、モノクロの殺風景な風景にあらゆる物語を連想させる音楽になっている。アンナは、哀しい詩を書いた。いつでもそうだが、書き上げるまでは現実とのバランスも崩すほどにのめり込んでいく。今回は、映画の中のイメージを描くことで、その哀しい物語の中に入り込んでいった。
アンナは映画の中の、不幸な女、クロチルドに共感した。そして、自分の心は、そんな「しがない人々」たちにあるのだと改めて確信した。自分の歌、音楽は人生の喜びとはほど遠く生きる、取るに足らない人々の心なのだと。
それから、いつくもの映画音楽に詩を書いた。「追想」では、実在したアナスタシアの詩を書いた。アナスタシアは、ロマノフ王朝第四皇女で、革命の最中王家一族は監禁され、翌年1918年レーニンの命により銃殺されてしまう。しかし、その後、アナスタシアは逃げ延びて生きているというまことしやかな噂が流れる。そして、アンナ・アンダーソンという一人の女性が、自分はアナスタシアだと声をあげる。映画「追想」はそのアンナ・アンダーソンを描いたものとなっている。この時ばかりは、アナスタシアの亡霊を呼びこんでいるのではないかと思うほど、アンナは常にアナスタシアの存在を感じた。
その他、ジェルソミーナ、ひまわりなど、数々の名画の哀しくて美しい音楽に歌詞を書いていった。
アンナは、アメリカの音楽を歌う難しさを痛感した。誰でもが知っている美しいメロディーを自然に聴こえる様に歌うことは、シャンソンとはツボのようなものが違うため、発声から変えることにした。途中で声帯を壊し、声が出なくなり、不安になった。
次第に声帯も落ち着き、歌の表現を考えた。誰でもが歌える様なメロディーなのに、どう歌っていいものかと悩んでいた。
レオンはそんなとき、アンナの歌の上達を褒めてくれた。声の艶、音程、リズム、そして哀しい声。レオンとのリハーサルを何度も繰り返して、歌い込んでいくまでそれは続けられた。
コンサートの当日、先ほどまで緊張を感じなかったアンナは、開演直前、怖いような緊張を感じた。
「レオン、私、緊張しちゃったわ。怖くなってきた・・・。」
「大丈夫だよ。今まで練習してきたことをやればいいんだからね。」
レオンはアンナの手をぎゅっと握ってこう言った。体をほぐす様に腕を摩って、アンナに優しく微笑んだ。アンナは、レオンの深い優しさを感じた。言葉では言い尽くせぬ感謝の気持ちを抱いた。
コンサートは盛況だった。何人もの人々が素晴らしかったと感想を述べてくれた。アンナはコンサートの後はしばらく途方に暮れ、支離滅裂な興奮状態のまま過ごした。半年以上前からコンサートのことに専念していたから、終わった後には、やり遂げたことと、それとは別に反省点や後悔もあった。
「アンナ、今回のコンサートはずいぶんと頑張ったね。歌もとても良くなったね。色々な勉強が出来て良かったね。反省点色々とあるだろうけど、成功だったと思うよ。」
アンナは、レオンの言葉に救われた。アンナは何より、コンサートに向けて、レオンがアンナに対して集中してくれたこと、アンナを励まし、あらゆる点で導いてくれたことに深い喜びを感じていた。
そういえば、そのことを言いそびれたままだわ・・・。
あの時のレオンの優しさやアンナに対する深い愛は、愛し合っていると分かっているにも関わらず、驚いてしまう程深いものだつた。アンナを心から理解し、そして、アンナの一番良い状態を作ってくれた。レオンの音楽の才能と人間としての優しさ、そして、大きさを一番強く実感した時だった。アンナはそのことをまだレオンに話していない。どう話しても、その時の深い感謝の気持ちを言葉にすることが出来ないからだった。アンナは、元気なうちにきちんと話をしておかなくてはいけないなと思った。そして、その時に、自分の命はあとどれくらい残っているのだろうかと不安な気持ちに襲われた。