39歳、学習障害&不登校の小2息子と二人暮らし、

シングルマザー、たえちです。

 

過去の私は、自己肯定感が低く、 

仕事も子育ても楽しめない自分が嫌いでしたが、 

母親との関係に向き合うことで、毒親の呪いが解けて、

育児にイライラがなくなり、

子供の好きを育てられる母親になれました乙女のトキメキ

 

1984年、三姉妹の長女として、私は産まれ、
過干渉で、過保護な母親に育てられました。

 

いわゆる、毒親でした。

母は、専業主婦で、
いつも不機嫌、あまり笑わず、
家事や育児に忙しそうでした。

「母は、私を見てくれない」

という気持ちが、
小さい頃からありました。

母は、妹ばかり可愛がっていると、
いつも思ってたし、
妹に嫉妬もしていました。

でも、お姉ちゃんだから、

「お母さんに甘えちゃいけない」
「迷惑かけちゃいけない」
「妹は小さいんだから、優しくしなくちゃ」


って、そんな風に、ずっとずっと我慢していました。




当時住んでいた長野で、
3歳から保育園に通うことになりました。

保育園の時、妹二人は家にいるのに、
私だけ登園するのが嫌で、嫌で、仕方がなかったんです。

3歳の私には、妹は母と一緒なのに、
自分だけ保育園に行かなきゃいけない状況が
理解できなかったんだと思います。

母が私を保育園に送ったあと、
家に帰るのを園庭の隅まで追いかけて、
母が見えなくなるまで、泣き続けました。

そのあとも泣き続け、
保育園に着いてから、
数時間、毎日毎日泣きじゃくっていました。

ついには、保育士さんからも、うざがられたのか、
 

「泣き止まないなら
 お部屋には入らせない!」

と毎日廊下に立たされていました。

そんな泣いてばかりいるもんだから、
周りの友達からもバカにされ、
洋服を隠されたり、いじめにあって、さらに泣いていました。

保育園のときは、
私は泣きながら廊下にいた記憶しかないくらいです(笑)。


私の自己肯定感はどんどん下がっていきました。
 

ですが、父親の転勤で、引っ越しが決まって、
小躍りするくらい、嬉しかったのを覚えていますルンルン



次の転勤先の沖縄では、
幼稚園、小学校と、素敵な先生・お友達に恵まれて、
のびのび育って、当時は楽しい記憶ばかりです。

ですが、小2でまた父が転勤になり、今度は福岡へ。



転校した当初はドキドキしたが、
すぐに溶け込むことが出来ました。



母は、この時も、相変わらず、不機嫌で、
いつも忙しそうでした。

母の気を引こうと、妹のお世話をしたり、
勉強頑張ってみたりするも、
振り向いてもらえずもらえませんでした。


小学校3年生のときに、
学級委員に立候補して、
見事、学級委員になれました。

母に報告したら、
きっと喜んでくれると思いました。

でも、

「なんであなたが学級委員なんかするのよ!。
 ほかのやりたい子に、任せればいいじゃない!」


と言われ、母親は喜ぶどころか、
ますます不機嫌になりました。

「目立たず、おとなしく、、、
 そうすれば、母に好きになってもらえるのかな」


そう考えて、それから私は内向的な性格になっていきました。



中学校3年生で、またまた父の転勤で、
福岡から神奈川に引っ越しをしました。

そのとき、私は、クラスの女友達から
仲間はずれにされる経験をしました。

凄くショックで、
人間不信になりました。

学校に居るのが辛くて、
放課後はすぐ家に帰ってきて、
無気力で、
ただ布団に寝転がることしか出来ませんでした。

そんな私を見て、母は

「なんでずっとゴロゴロしてるのよ」

と悪態をついてきました。

私は、学校でも家でも居場所がない、
自分が存在してはいけないんだ、
そんな気持ちに心が支配されていました。


このころから、早く家を出て、自立したいと
考えるようになりました。

近くのスーパーで、段ボールをもらってきて、
いつでも引っ越しできるように、
荷物を詰めたりしていました。

今思えば、中学生で家を出られるわけもないのですが、
当時は本気でした。

我ながら、可愛い中学生の思い出です。




高校に入ると、これまで内向的だったのが、一遍します。
理由は、彼氏が出来たからです。

彼氏ができて、

自分に自信がついて(これは偽りの自信でしたが)
まさに男浸りの生活になっていきました。

彼氏とデートするために、
バイトでお金を稼いで、
彼氏と遊んで・・・という毎日。

家庭で感じる孤独を、
彼氏と付き合うことで紛らわそうとしていました。

しかし、今思い返せば、
当時、彼氏がいても、
私の自己肯定感は満たされることはなく、
やっぱり、ずっと孤独でした。

「いつになったら、
 この苦しさから解放されるんだろう?」
 

って、毎日もがいていました。



そして、高校卒業後の進路を決めるとき、
母は、”女が大学なんて行くのは意味ない”
という考え方で、大学に反対していました。

ですが、私は案外、高校の成績が良く、
指定校推薦(高校の内申点と簡単な面接で選考される)で、
大学に行けるぐらいだったし、
大学でもう少し勉強がしたかったし、

親の援助を受けずに、奨学金を利用して、
そこそこな私立の大学の理工学部に進学することにしました。

借りた奨学金と、足りない分はバイトで稼いで、
学費にあてました。

大学でさえ、母に反対されていたのに、
私は大学での研究が楽しくなり、
私は自分の判断で大学院まで進学しました。

もちろんこの時も奨学金でした。



私が小さい頃は親の顔色を伺って、
なんとか気を引こうと、
日々頑張っていましたが、


高校過ぎたあたりから、
自分主体で生きていこうと、
少しずつもがき始めていました。


自分ストーリー②に、続く。