幕末の人物として横井小楠は、知名度が低いように思う。

かくいう自分も、松平春嶽のブレイン・横井小楠は福井の出身のように思っていた。

しかし、小楠は肥後(熊本)の生まれで、れっきしとした熊本細川家の家臣である。

福井藩には乞われて期間限定で「出向」したに過ぎない。

勝海舟は「氷川清話」の中で小楠を評して、

 

とても尋常のものさしではわからない人物で、かつ、いっこう物にこだわりせぬ人であった。それゆえに一個の定見というものはなかったけれど、機に臨み変に応じて物事を処置するだけの余裕があった。

 

と言っている。

 

名エッセイストとして名を馳せた井出孫六は「峠を歩く」の中で小楠が歩いた熊本の二重峠(ふたえのとうげ)を紹介しつつ、

 

横井小楠を「処士横議」の現実派のチャンピオンだったと見たてれば、理想派のそれは吉田松陰である見ることができるのではないだろうか。

 

といい、吉田松陰と並びたてている。

 

海舟は「定見というものはな」いと言っているが、小楠の考えというのはどのようなものであったのだろうか?

それは源円了の「実学思想の系譜」に詳しい。

源によると、小楠は佐久間象山と並ぶ幕末の代表的開国論者だったが、象山が「強兵」により列国と肩を並べようとするのに対し、小楠は「富国」により国家の独立を保とうと考えたという。
 

もともとは攘夷派だった小楠は、安政二年(1855年)の各国との和親条約締結の際の徳川斉昭の態度に失望し、水戸学から離脱し、さらに考えに考えを重ね、開国論者となった。

さらに身分制の否定、議会制の肯定、血統による世襲政治の否定などは、アメリカの共和制と通じる部分がある。

国際的には武力の必要性を認めながらも、国家の平和的共存を理想とし、積極的貿易論を展開した。

江戸時代もいよいよ大詰めの慶応三年(1863年)に松平春嶽あての上書では、内地に商社をたて、大名だけでなく、望みによっては商人、百姓をもその商社に入れ、ともに交易せしむことが献言されている。

 

こんな先進的な考えを持った小楠だが、酒に飲まれるというアキレス腱があったようだ。

若くして江戸遊学に出る際、後ろ盾であった肥後藩の長岡監物から「酒のほうはどうだ? 固く禁酒できるように祈っている」と言われながらも、藤田東湖に招かれた酒席の帰り道で「過酒の上」「藩外の者と問題を起こした」ことにより、即刻国許に戻され、七十日の蟄居閉門を言い渡された。

このことにより、小楠は何年もの雌伏の日々を送ることになる。

なんとなく人間味を感じる話だ。

 

その小楠は明治になると参与として政府に出仕するが、明治二年(1865年)1月5日、京都の寺町通り丸太町で十津川郷士・六人組に暗殺された。

開国論者としての先進的な思想とキリスト教の肯定が嫌われたからと言う。

もし、小楠がもっと長生きしていたら、富国よりも強兵への道へと突き進んでいく明治政府がどう変わったか、知りたかったと思う。

 

 


 

 

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