阿刀田氏は夙に短編小説の名手として有名だが、個人的には『ギリシャ神話を知っていますか』等の古典ダイジェストシリーズでお世話になった記憶がある。氏は去年夫人を亡くされ、現在90歳で一人暮らし。その日々を綴ったエッセイで、ベストセラーになっている。高齢の男の一人暮らしは孤独死と直結するイメージが強いが、事実であると思う。実際私の元同僚も60代後半で妻に先立たれ、その後数年で孤独死した例が複数あるからだ。因みに、先日中学校の卒業60年(今年は全員後期高齢者)記念の同窓会があって出席した。40数名が集まったが、当然ながら他界したとか病気とかで欠席の情報に接した中で、出席者の中で夫人に先立たれた人も多かった。よって老後の孤独生活は男女ともに関心が注がれる問題になっていることは確かだ。
本書の構成は、「日々の暮らしと知恵」「私の好きなもの」「身体の声を聞いてみる」「生と死の間で」の四部構成になっており、どれも面白いが、私が気に入ったのが「日々の暮らしと知恵」の中の「教養がありますか」の項である。これは「今日用がありますか」のしゃれなのだが、毎日の生活の中でこれをしなければと思うことがあると、気持ちにハリが出ることを述べていて共感できる。食材は届けてもらってそれを料理しているとのことだが、料理も「用」のうちに入るのだ。普通、昼夜の弁当を届けてもらって料理をしない人が多い(私の母もそうだった)が、自炊するのは偉い。
著者曰く、今日用のない日は、なんとなくテレビを見る。朝の新聞で〝見たい番組あるかな〟と一応テレビ欄に赤印なんかつけておく。プロ野球、大相撲、国会中継もたまにみる。ーー議員は眠いだろうなーーあまりやりたくない職業だ。午後はやたら推理ドラマが多く、退屈しのぎによく見るが、ーー殺人が多いなーー世の中、これほど殺人事件があるわけでもあるまい。各テレビ局とも軒並み殺し合っている等々。ニュース番組やバラエティー番組への言及はなかったが、そのしょうもなさに対する批判を聞きたかった気がする。私としては、司会者もコメンテーターも小市民的大団円に収斂させようとしており、何かへらへらした感じがいやなのだが。
巻末に妻慶子さんを亡くしたその後が綴られている。曰く、斎壇遺影に「おはよう」などと笑いかけてたりしている。妻より先に死ねないと考え続けてきたが、年来の懸念が消え、もう勝手に、気まま、自由に、好きに生きればいい。いつ死んでもいい。あらためて自分の死を強く意識した。時間は勝手に流れ、私の最期も浮草となって消えていくだろう。あとには何も残らない。それでいいのだ。みんなそうなのだと。これを悟りの境地というのだろう。みんなこうやって死んでいくのだろうなと思うと、方丈記の冒頭「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、、、、、、、」が浮かんできた。また兼好法師の『徒然草』第百五十五段に「四季はなほ定まれるついであり、死期はついでを待つたず。死は前よりしも来たらず、かねて後ろにせまる。人みな死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる」とある。「死は後ろから思いがけなくやってくる」のであるから、逆に言えば、日々戦々恐々となるには及ばないということか。