裁判で負けて判決に従っても、自分は正しいと思い続けることの弊害 | tadahiのブログ

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裁判で負けて判決に従っても、自分は正しいと思い続けることの弊害

 

 法よりも自分が正しいと考えることは、許容されるのでしょうか。どうしても譲れないこと、法に逆らってでも譲れないことはあると思います。その場合は、法が間違っている、譲れないと思い続けてもいいと思います。思い続けた結果、社会からの制裁を受けたとしても、甘んじて受ける覚悟があれば。しかし、そこまでの覚悟や思いがないのに、法が間違っている、自分が正しいと簡単に考え、思い続けていると、どんな弊害があるのでしょうか。

 法は社会生活をしていくためのルールであり、社会生活では、ルールに従って生活することを求められています。おかしいと思ったとしても、それがルールであれば従わないと罰せられたり、制裁を受けたり、他者から批判を受けることになります。法律までいかなくても、常識やマナー、申し合わせのようなものもあり、それも社会生活では守るべきルールです。これを守らないと、社会的に排斥されたり、相手にされなくなったり、評価を下げることになり、軽い処罰も受けることもあります。細かいルールを知らずに、批判されることもあります。その時、「それはおかしい。自分の方が正しい」と主張しても、多くの人がそのルールを認めていれば、そのルールに従う必要があります。特に、社会的に地位の高いとされる職種では、守るべきマナーのようなものは、厳しく問われることになります。そして、そのルールがより厳格化され、強い拘束力を持つものが法律です。従って、法は強制的に守らせる力があります。守るべきマナーよりも強く意識されるべきものが法というルールです。ただ、法が時代にそぐわず、改憲する必要のあるものもあり、一概には言えないかもしれませんが、それはまた、別の問題として考えたいと思います。

 常識やマナーと言われるルールを無視し、自分の考えが正しいと押し通しているとどうなるでしょうか。間違っていると指摘された時に、どこが間違っているかを知り、改善しようとするのが普通だと思います。それは自分が間違っていると認めることが前提となります。そして、間違いを認めたら、謝罪するのは自然の流れです。改善することで、次からは間違えないようになります。ところが、間違いを認めない、自分の方がそのルールよりも正しいと思い続けているとどうでしょう。指摘された点がどう違っているのかを知ろうとは思いません。どこがどう違っていたかが分からないため、直すこともできません。そうなると、次もまた同じように間違えることになります。これを続けていると、常識のない奴、自分勝手な奴と思われ、やがて相手にされなくなり、孤立していきます。地位を奪われることも出てくるかもしれません。少なくとも信頼は得られなくなります。やがて、自分は悪くない、周りが悪いと思うようになり、ついには、自分勝手な解釈で行動し、周囲に迷惑をかけることになります。このような人の成れの果ては、老害と言われる高齢者に多いと思います。ちなみに、老害の中には、ボケ老人も多く含まれていると思いますが、自分勝手老人は、ボケていないのに、ボケ老人と同じ行動をするところが特徴です。そして、自分が社会から受け入れられていないと思っているので、排他的であり、敵愾心が強くなります。

 マナーでさえ、このような弊害があります。それが法を無視し、自分が正しいと思い続けることは、より多くの害を周囲にもたらすことは、容易に想像できます。そして、害を振り撒いている自覚さえなくなっていきます。今、法に従っても、自分の方が正しいと思い続けることは間違っていないと考えている人は、やがて、自覚のない老害と化していることでしょう。周囲に害を振り撒いている自覚もないので、自分が老害だとも気づかないと思います。そんな老害老人と知り合いだと、大きな被害を受けるので、「裁判で負けて罰金を払っても、自分の方が法よりも正しい」と思い続けている人、それを肯定する人とは付き合わないようにした方がいいと思います。そんな人との友好は、やがて大きな被害、損害として帰ってくるような気がします。