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石丸市長の政治家としての評価

 

 安芸高田市の現市長の石丸さんが東京都知事選に立候補し、話題になっています。石丸さんを高く評価する人もいますが、あまり評価しない人もいます。この評価内容を見ていくと、評価する人は、市の問題点を洗い出し、それを改善していく点に注目し、財政再建への取り組みを評価しているようです。逆に、評価の低い人は、改革による結果が思ったほど出ていない点を見ているようです。維新の音喜多さんは、石丸市長の取り組みを評価していますが、維新の手法と似ているという指摘に対して、石丸市長は議会と衝突しているために、議案が通らないことが多く、その点は、維新とは違う、と述べています。また、政治は持続力が大切だと言っています。石丸市長への批判の中には、改革が定着していない、成果が出ていない状態でやめている、というものがありますが、持続力という点では、石丸市長は全く成果を示せていない状態であり、可能性は未知数という維新、音喜多氏の評価が一番当たっているような気がします。

素人の私の観察なので、間違えているかもしれませんが、私にはこのように見えているということで、私なりの評価をしてみたいと思います。安芸高田市は、他の多くの市町村と同じように、既得権益に群がる人たちが市を私物化しているような地方都市でした。財政赤字が常態化していても、市議は全く危機感を感じることなく、ダラダラと今まで通りの政治を行なってきていたようです。そこに石丸市長が現れ、多くの問題点を劇場型の手法で露わにして、改革を始めたのが、この4年間だったと思います。白黒をはっきりするような論調で、攻撃型の改革を行い、それをSNSで拡散し、市民以外の力も利用していたようです。住民からは、市以外の人が市政に口出すのはおかしいと言う考えで、否定的な人も多かったようです。ただ、なんとかしないといけないと感じる住民も多く、少しずつ変わってきていたのが現状ではないかと思います。私の感想では、改革は始まったばかりでし、これからが本番であり、政治家の手腕を発揮するのはこれからのような気がします。声高に批判し、悪い点を指摘するだけでは、行政はうまく進んでいかないと思います。本来は、もっと地味で、我慢強く、ゆっくりとしたスピードで進むのが行政改革だと思います。何か変えても、その評価は2〜3年後にしか現れません。石丸市長は、4年弱しか携わっていませんし、議会とは揉めたまま、改革の頓挫しているものも多くあるようです。「安芸高田市をなんとかせないかん」と思って市長に立候補し、当選したのであれば、それなりの成果を出すまで続けるべきだと思います。今の安芸高田市はなんともなっていません。石丸市長が投げ出せば、元に戻ってしまうかもしれません。もともと石丸市長が言い出して、今の混沌とした状態になっているのではないかと思います。石丸市長にしてみれば、このままだと安芸高田市は無くなってしまうという危機感があり、それを市民に伝えようとしただけかもしれません。しかし、そうであれば、最後まで責任を全うするべきではないかと思ってしまいます。私の目からは、途中で投げ出したように写ってしまいます。ただ、石丸市長は、そこまでは考えてなく、警鐘を鳴らことだけしか考えていなかったのかもしれません。危機を認識し、なんとかしようと言う思いを共有したかっただけかもしれません。もし、そう言う意思で市長を行なっていたとしたら、目的は達成されたと思います。しかし、何か違和感があります。

この違和感を別のシチュエーションで考えてみます。安芸高田登山隊が雪山で遭難し、寒さで眠りに落ちそうになっていたとします。ひとり目覚めていた石丸君がみんなを叩き起こし、眠ったら死んでしまう、目を覚ませと言って、全員を起こしていきます。目覚めたものは、大変だ、死ぬところだったと気づき、石丸君に感謝します。そうして、みんなが励まし合って、救助されれば、ハッピーエンドです。しかし、救助隊自体が疲弊していて、助ける力などなかったとします。安芸高田登山隊は、自力で助かる道を探すしかない状態だったとします。隊員の多くは老人であり、体力もありません。助かる確率は少なく、遭難して死をむかえる確率の方がずっと大きかったとします。結局、助からず、目覚めて、死の恐怖と直面したまま死を迎えたとします。その時、あのまま目覚めず、寝たまま死んだ方が幸せだだったのではないかと、思ったりします。石丸君は、起こす意味があったのかと考えてしまいます。それでも起こすべきだというのが、優等生的な答えでしょう。しかし、現実は、安楽死が見直され、老夫婦では、妻に死の宣告がなされた時、夫婦で安楽死を選ぶ場合が増えているようです。

人と市は違うと言われそうですが、国中の人口が減っていくなかで、3万に満たない市が生き残っていくことに、意味があるのかを考えてもいいと思います。死にゆく人に、ありもしない希望を与え、それを信じて足掻くことが本当に幸せなのでしょうか。それよりも、穏やかに、幸せに衰退していくことが、どうしていけないことなのでしょうか。日本の国自体が衰退の道を進んでいます。人口が減少しているから、移民を入れればいいという考えは、別の国になると言うのと同じであり、移民を入れれば、日本の衰退は加速するだけではないかと思ってしまいます。

 現実の危機を実感し、警鐘を鳴らすことは重要なことですが、もっと大切なのは、現状を踏まえた上で、将来のあるべき姿、なりたい姿をビジョンとして示し、市民の意思として必要なことを推進していくという政治力だと思います。警鐘を鳴らすことは、派手で目立つ行為ですが、本来の政治は、地味で目立たないところが重要なのだと思います。こういう目で見ると、石丸市長は、警鐘を鳴らすことには長けていると思いますが、本来の政治力としてはかなり不足していると思います。

残念なことに、他の東京都知事候補に、このような要素が備わっているかといわれると、ほとんどの候補は、石丸市長以下の力しかないように感じます。そう言う意味では、現状で最も選ぶべき人は、石丸市長だと思いますが、都民は、このような視点で候補者を見ることはないでしょう。これまでのような選挙であれば、現役が強く、次に、組織の大きい立民党が強いということになり、石丸市長の勝ち目はないでしょう。また、石丸市長が立候補し、選挙活動で警鐘を鳴らしても、都民は危機感を持つかどうかは疑問です。石丸市長に賛同している人は、すでに危機感を持っている人であり、それ以外の人が、選挙活動で変化が生まれるかは、大きな疑問です。それよりも、安芸高田市でもう少し市長を続け、今の主張が広く認められるように努力していく方が、国全体として見れば、効果が大きいように感じます。もしかすると、都知事選によって、石丸市長自体が消滅する可能性もあると思います。それは、大きな損失のように感じます。