明治2年5月11日(1869年)は土方歳三が箱館戦争で戦死した日です。

歳三の命を受け、市村鉄之助は箱館五稜郭を脱出、船の中で出航を待つこととなります。出航したのが新暦の6月23日頃でしょうか。
中島登の記録には、市村鉄之助、行方不明とあります。

数日かけての航行で、6月末に横浜に着いたのでしょう。
到着後、間もなく質屋に立ち寄ったという記録があります。
当時、目的地に行くのも簡単ではない筈です。身を潜めながら佐藤家までやってくるとなれば、数日は要すると思います。

佐藤家に着いたのが、新暦の7月3日との説があります。
この時期は梅雨の真っただ中。
鉄之助は、歳三の命を受けて持ち運んだ遺品・・・写真、遺髪、刀、書き付け・・・
「使の者の身の上 頼み上げ候 義豊」
諱の義豊とあり、いつもの署名、土方歳三ではありません。
そして戦況を伝える手紙は書いていませんでした。



賊軍となってから、筆まめだった歳三が、そこから手紙を一切出さなくなりました。
父母のように慕った彦五郎やノブに、いらぬ嫌疑がかかってはならないと、証拠に残る手紙を書けなかった。何をやらせても、そつなく出来た歳三は彦五郎、ノブへの配慮も忘れませんでした。
北へ向かう会津、仙台、箱館。もっと手紙を出したかったことでしょう。そんな歳三の気持を考えると可哀想だったなと思います。
歳三の一番大切な身内への心遣いは、市村鉄之助に伝言としてもたらされました。

「われ、日野佐藤兄に対し、何ひとつ、恥ずるべきことなきゆえ、どうかご安心を」

当家は、歳三のすぐ上の姉・のぶの直系の子孫にあたりますが
弟思いだったのぶでしたので、市村鉄之助から歳三の戦死を知らされた時のことを思うと、可哀想でなりません。
歳三の冥福をお祈りいたします。