3年前、「福子新選組倶楽部」の会員で、有山家の上段の間と本田家の主屋の見学会が行いました。

 

有山家見学の後、午後からは、舞台を国立市谷保に移して、本田家主屋・薬医門の見学です。

その当時、本田家も非公開でした。

 

会員の皆さんより先に着いたので、入り口(薬医門)に行ったところ、ご当主の娘さんが出迎えてくださいました。

 

間もなく本田家16代ご当主・本田咊夫(荻庵)さんも見えられ、しばし談笑となりました。

佐藤家の古写真に「谷保天満宮一千年祭」とのタイトルが6〜7枚ありましたが、その中に明治時代の甲州街道に2台の人力車と塀が写ったものが2枚ありました。

本田家ではないかと複写して持参し、おふたりにお見せしたところ、「植垣が刈り込んであった....薬医門がこうだった....」等、話され、本田家前の写真であることが判明しました。

 

この2枚の古写真は見た事がなかったとのこと、おふたりとも大変喜ばれました。

 

(江戸の御客様さよなら 谷保天神一千年祭)と書いてあります。

 

この古写真には薬医門の一部も写っていますが、まだ甲州街道に面していたものでした。

道路幅員拡張によって、現在の位置に移されました。

かなりセットバックしたのでしょうか?当時は、門から主屋までもう少し距離があったのでしょう。

 

 

馬が出入りするため、高い造りになっています。

 

30分ほどして会員の皆さんも到着し、おふたりのご説明を伺ながら見学となりました。

当時、平日は国立市の調査が入っていると言われておりました。

 

東側の古い方の玄関に福子と向かい、写真を撮ると、多くのオーブが写り込んでいました。

後日、会員の皆さんに、この玄関の写真でオーブが写りこんでいるか聞いたところ、誰も写っていないことがわかりました。

ある会員の方は、玄関に福子が来たので「よく来たな」と出迎えたのでは?と言われました(笑)

遺伝子が通じるのか?ヽ(*'0'*)ツ

(オーブがいっぱい)

 

 

 

(米庵流の篆刻が並んでいます)

 

(火鉢?当時おしゃれな火鉢だったのでは?)

 

(谷庵とあります。佐藤家にも谷庵書の「誠」の彫り物があります)

 

(部屋の一部)

 

主屋の建築年代を調べたところ、本田家には「金屋諸職人作料其外払方牒」(嘉永2年・1849年)という家普請の記録があり、このとき母屋南側の書院、および母屋西側の元々馬屋だったところを書斎等に増築したものとあります。

 

嘉永2年に増築されているので、歳三や近藤勇さんが訪れていたころは、現在の建築であったようです。

咊夫さんにお伺いしましたところ、近藤勇は周辺の剣術のために訪れていますが、書や漢詩を習っていたそうです。

それ以前、彦五郎も習いに来ていたとの事です。

 

東側からの面、書院、中の間、奥の間と続く

 

中の間・北側の柱に付けられていた祈祷札を調査したところ、享保16年(1731)銘が確認されたそうです。

祈祷札を剥がしたあとは、白く残っています。

 

300年近くの歴史のある建築ということになります。

 

とてつもなく長い歴史を背負った建物で、著名な文人たちも此処の歴史に携わっています。

狂歌師の蜀山人
こと太田直次郎や府中六所宮の祠官の猿渡容盛(ひろもり)、儒者で漢詩人の小野故山、他多くの文化人との交流がありました。

 

佐藤彦五郎宅もそうですが、当時の文人たち、また歳三・勇らの語らいが聞こえてきそうな邸内は、そんな歴史が刻まれているのです。

 

歳三や勇が泊まった部屋がここ。奥の間になるそうです。

 

奥の間には、彦五郎の母・マサの姉・チカさんの絵の額がありました。

 

 

 

西側には富士塚のような小さな築山があり、祠がありました。

 

東側横、敷地内から見る薬医門。

 

本田家見学後、薬医門前で集合写真を撮り、次の見学地、すぐ近くにある谷保天満宮に向かいました。