今回の講演会は、古文書に長けた清水 隆先生に「沖田総司の書簡の解読」をお願いいたしましたが、その中でも最も重要な「山南敬助の死を伝える」書簡であり、「山南敬助について」も講義していただけるよう、お願いいたしました。

当日配布したレジュメの資料を見ながらのご説明が始まりましたが、
その中で、山南敬助は北辰一刀流であると言われてきました。
それは、永倉新八が明治37年に高幡不動尊の「殉節両雄之碑」の拓本の余白に、メモ書きのように、北辰一刀流千葉周作門人・山南敬輔と書き残したものがあって、そう信じられ伝えられていたからです。
しかし、中山幾之進が書き残した「攪撃修行録」に、何カ所にも渡って道場に出向き、試合をしたという記録には、相手の名前が書き残してありますが、それはそれぞれ対戦した本人が書くそうです。
その中に
「飯田町堀留大久保九郎兵衛門人 一刀流 山南敬輔」と山南の直筆が残っています。

会津藩に提出した新選組名簿にも、山南敬輔は小野派一刀流として書いているので、北辰一刀流ではなく、小野派一刀流であったと訂正できるというのが、清水氏の見解でした。

小野派一刀流の大久保九郎兵衛、北辰一刀流の千葉周作が相次いで亡くなっており、両方を免許まで取るというのは、不可能であろうということです。

そうなると、永倉新八が拓本の余白に書き残したのは、66歳の時ですが、一刀流ということで、藤堂平助と一緒になったか、勘違いの可能性があるかも知れませんね。

岩城升屋事件での話、鴻池屋事件との時期的な類似点、山南敬輔の折れてしまった刀が血まみれで、押し型を土方歳三が小島家に送ってきたこと、また謝礼として頂いた刀についてなどが語られました。
その謝礼の刀については、近藤勇、土方歳三、山南敬輔が関わっていますが、三年前の彦五郎忌で小島資料館館長・小島政孝氏の講演会で話された資料によって、清水氏が知った新事実など…披露されました。

講義

山南敬輔が最期、前川邸で明里と格子窓越しに言葉を交したことについても話されました。都合上、ここで詳しいことは書けませんが、これは八木家の二男・八木為三郎の談話聴取したことが、記録に残っていることも含め、清水先生の考えを述べています。

沖田総司を慕っていた女性についての話もされましたけど、隊士たちの恋人についても、小説、映画などでも必ず取り上げられる話しですね。