久しぶりにアルトーを読む。以前よりも理解が多少深まったような気がする。感動する。私はやはり、文学作品が与えてくれる勇気というものを信じているのだと思う。アカデミズムに対する嫌悪感と文学そのものに対する信頼とは別物である。


「ヴァン・ゴッホはその全生涯の間に異様なエネルギーと決意をもって自分の自我を探し求めた、そして彼は狂気の一撃に見舞われて、どうしてもそれに辿り着けないという不安のなかで自殺したのではなく、それどころか、ようやくそれに辿り着き、自分が何であるか、そして自分が誰であるかを彼は見出したばかりだったのだが、そのとき社会の一般的意識が、社会から無理やり身を引き離した廉で彼を罰するために、ヴァン・ゴッホを自殺させたのである。」


「それに人はたった独りで自殺したりはしない。誰もけっして独りで生まれてきたのではなかった。また誰もけっして独りでは死なない。だが、自殺の場合、自分自身の生を自ら絶つという自然に反する行為を肉体に決意させるには、一群の悪しき存在が必要である。そして私は、最後の死の瞬間には他の誰かがいて、われわれからわれわれ自身の生を奪うのだと思っている。」


アルトー、『ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者』

(『神の裁きと決別するため』、河出文庫)


「私、アントナン・アルトー、私は私の息子、私の父、私の母、そして私。」


アルトー、『此処に眠る』


「私は、自分が生きていると感じることしか望まず、生きようと努めたことを認めないあらゆる人間を臆病者として憎み、卑しめる。私は、つくられたことを受け入れ、自らをつくり直したことを認めないあらゆる人間を臆病者として憎み、卑しめる。」


アルトー、『パリ - ワルシャワ』草稿

(『アルトー後期集成Ⅲ』、河出書房新社)

<フランスに来る前に学んだこと>


1. 語学


a. 英語

b. フランス語


2. 文学・哲学・現代思想


a. 「私」という存在は、決して自立、安定したものではない。


通常「私」とは、ひとつの独立した、確固たる存在だと思われている。しかし「私」という存在は、決して自立、安定したものではない。フロイトは、「私」のなかにありながら「私」が支配できないもの、「無意識」を発見した。「私」とは、常に「なんだかよく分からない不気味なもの」を内包しているのである。また構造主義は、「私」は「私」がいる社会によって作られる、ということを提唱した。「私」が使う言葉は社会の公共物であり、「私」の仕草や考え方も、同時代の社会に強く拘束されている。さらに「私」のアイデンティティーを構築する性別や身分も、「私」だけに属するものではない。「本当の私」や「私だけの独自性」といったものは幻想にすぎない。「私」とは、ある特定の社会システムの産物である。(このような構造主義の考え方に対する批判も存在する。)


b. 「私」は他者の承認を求める


人間が尊厳を保つには、他者から認められる必要がある。パリの社交界から絶縁されたルソーは、ひとりで田舎にこもり、自分の著作を読んだ後世の読者が自分のことを正当に評価してくれることを望んだ。同時代の誰からも認められない彼は、後世の読者という理想の他者を頭の中で作り出し、いずれ彼らによって認められるということに希望を見出したのである。また、無名の詩人だった二十代のアルトーは、当時、文学界の権威だったリヴィエールに送った手紙の中で、自分の詩を「絶対的」な視点から「裁いて」くれることを懇願している。アルトーは、リヴィエールのことを神にも匹敵するような他者として祭り上げ、その他者に認めてもらうことで、自分の存在の正当性を確保しようとしたのである。



<フランスで学んだこと>


1. Communication(コミュニケーション)の問題


フランスでは、意見の異なる者と徹底的に話し合うことがポジティブとされる。これは、言葉は全てを表現できるはずだという確信、および弁証法の伝統に起因するものと思われる。



2. economie(経済性)の問題


フランスでは、明確な目的のために限られた資源を最も効率よく使うことが意識される。闇雲ながんばりは効率が悪い。



3. Communaute(共同体)の問題


a. 哲学的視点


人間が尊厳を持って生きていくには、他者によって自分の価値が認められることが必要となる。そのためには、自分を認めてくれる他者をストックしておいてくれる共同体、そして自分に積極的な役割を与えてくれる物語が不可欠である。


<補足>


社会の中に自分の役割を見出すことができずに、苦しむ人たちがいる。フランスの新聞、リベラシオンは数ヶ月前、ロシアで高齢者の自殺が増えている、という記事を掲載した。この記事は、「ロシアの貧しい老人たちは、資本主義となった現在の社会の中では自分たちが果たす役割がない、経済的な生産能力のない自分たちの存在は社会の迷惑でしかないと感じている」、という心理学者の見解を載せている。


b. 社会的視点


資本主義のグローバル化は個人に、市場経済を構成するひとつのユニットとして世界に参入すること、そして常に競争することを強いる。しかし、昨年の金融危機をきっかけとして、このような市場原理主義のあり方が問われるようになった。経済的競争から離れて個人が安らぎを感じられるような場所、そしてそれを可能にする共同体の必要性が言われはじめている。


<補足>


α. フランソワ・フィオン首相の命を受けて、リュック・フェリーは金融危機以後の世界においてフランスが採るべき基本方針をまとめたレポートを作成した。このレポートは、1)国民は市場経済における自由競争の犠牲になっている、2)政府の役割は、彼らの私生活を守り、充実させることだ、として、家族への給付金の拡充などを訴えている。


β. フランスの哲学者、ドゥブレは、個人が直に自由競争に参入しなければならない現代だからこそ、友愛によって結び付けられた、個人を保護してくれるような共同体が必要であることを訴えている。

土曜はヴェルサイユへ。ヴェルサイユ宮殿を堪能したあと、夜の九時から始まる噴水ショーへ。広大な庭園にバロック音楽が流れ、美しく剪定された緑の回廊を抜けるとさまざまな演出がされた噴水が目の前に現れる。上質の時がゆったりと流れる、非常に贅沢な時間だった。


日曜はのんびり。ムッシュから、以前だしたネット広告の修正を依頼されるので、それをこなす。でもこれ、僕が帰国したらどうするんだろう。登録から何から、すべて僕が把握してるのに。

Theatre de la villeにてJohanne Saunierのコンテンポラリーダンス、ERASE-E(X)を鑑賞。女性のダンサーがずっと踊り続けるという内容で、ゴダールの映画の音声だけが流れたり、スクリーンに映像が映し出されたりと、背景にはいろいろなコンセプトがある様子。しかし、事前にまったく予習をしないで行ったためか、よく理解できない。


身体、イマージュ、記憶、等々、現代アートを勉強している大学院生あたりが好きそうなキーワードは散在していたように思う。だが、コンセプトの方向性が分かったからといって、それが必ずしも感動に結びつくというわけでもない。結果的に、途中で飽きてしまった。それでも、公演後には大きな拍手が沸いていたので、分かる人には分かったのだろう。アートも一種のコミュニケーションなので、作り手と受け手がコードを共有していないことにはメッセージは伝わらない。現代アートの場合、このコードの取得に時間がかかるので難しいのかもしれない。

レジス・ドゥブレの『Le Moment fraternite(友愛の時)』を読了。フランス語が非常に読みにくい上に、構成も複雑なので、全てを理解できたとは言い難いが、頭の整理のためにまとめる。


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個人の集まりが「われわれ」というひとつの集団になるには、「われわれ」をまとめ上げる「聖なるもの」が必要である。例えば、キリスト教徒という「われわれ」が、キリスト教の神という「聖なるもの」の下にまとまったように。しかし、現在のヨーロッパでは、キリスト教はもはや「われわれ」を形成する力を失っている。現代ヨーロッパにおける「聖なるもの」、それは人権である。人権を最上の価値として認める、という意識の共有が、ヨーロッパをひとつの「われわれ」として結び付けている。


「聖なるもの」とは、議論する余地もないほど絶対的なものである。現代の「聖なるもの、人権もまた、考えるまでもなく絶対的に正しい価値観とされている。しかし、人権があまりにも絶対視されてしまっているために、あらゆる社会問題が「人権侵害か否か」という単純な図式に還元されてしまい、現実が見えなくなっている、という傾向もある。さらに、特定の価値観を無条件に崇拝し、それを他者に無理やり押し付けようとしたことから歴史的惨事が生じる、ということもままある。このようなリスクを避けるためにも、人権という概念を歴史的に検証し、相対化することが必要である。


だからと言って、「聖なるもの」が不要というわけではない。資本主義が世界を席巻し、個人が市場経済の流れにさらされる時代だからこそ、個人は自分を守ってくれる「われわれ」を必要とする。


「われわれ」を結びつけるのは友愛(fraternite)である。友愛とは、絶対的な価値の前で対等な仲間が、互いに運命を共有し、互いに自分の全てを相手に与えようとする心情的なつながりである。また友愛は、「われわれ」の規律に従うならば誰でも「われわれ」のひとりになれる、という意味で外部に対して開かれている。この友愛を維持する上でのポイントは、1)自分たちの考え方を絶対的だとは思わずに、他の価値観も認めること、2)「われわれ」の記憶を世代を超えて共有すること、3)何らかの儀式を通じて連帯を強めること、である。また、友愛を基盤にした「われわれ」の結束力を高める手段としては、祭り、宴会、合唱、誓いが挙げられる。

ムッシュと夕食準備の時間が重なったので、ついでに立ち話。最近、演劇によく行っていると言ったら、「コメディーフランセーズには一度は行ったほうがいいよ」とのアドバイス。ちなみに彼はモリエールとラシーヌが好きらしい。コルネイユはちょっと単純すぎるし、またバカロレアの課題でいやいや勉強したということもあるので、あまり好きでないとのこと。僕が「こないだドン・ジュアンを見に行った」と言ったら、「自分はタルチョフがいちばん好きだ」という返答。八十歳という年齢、さらに元グランゼコール助教授で貴族という背景もあるのだろうが、十七世紀の演劇について自然に語れてしまうところはさすが。ということで、さっそくコメディーフランセーズのMaladie imaginaire(邦題は忘れた。「医者気取り」だったかな?)のチケットをネット購入。


「あなたに言われたとおりに音楽祭の日はカルチェラタンに行ってみたが、素晴らしかった」云々というような会話をしていたら、突然、「七月に契約が切れたあとでも、次の入居者が来るまでタダでいてくれていいよ」と言われる。帰国の日はすでに決定済みなので断ったが、こう言ってもらえるのはありがたい。「きみは知的で文化的でいろんな事を知っていて、すばらしい」とほめてもらうが、こういうことを自然にはっきりと言えてしまうところが、このムッシュの懐の深さを表している。さすがはフランスの超エリート。自分の好意をきちんと相手に伝えるという、この姿勢は非常に勉強になる。


ところでここのムッシュ、実はScience Poだけではなくて、Ecole d'ingenieurでも経済を教えていたことがあるらしい。もともとはフランスの某有名企業で働いていた人で、マーケティングのスペシャリストでもあるし、とことんエリートです。でも、僕の祖父も経済学の教授だったし、もうひとりの祖父も会社をやっていたりしたので、なんだか家のなかの雰囲気は似てるんだよな。一緒に暮らしていても、ほとんどストレスを感じないというのは、どこか共通する部分があるからなのだろうか。


さて、この日ムッシュが放った、最も印象的だった言葉。「教師の役割は、生徒に知識(connaissance)を教えることではなく、方法(methode)を教えることだ。」その通り。僕自身、たとえば語学の学習でいちばん大切なのは自分なりの方法論を確立することだと思っているし、また家庭教師をしていたときに生徒に伝えたかったのもこのことだった。いま、勝間和代など、勉強や仕事の方法論を紹介した本が売れまくっているが、これも方法論の確立の重要性が認識されてきたということだろう。自分なりの型が出来れば、勉強は習慣になる。そして、習慣こそが結果を生み出す。

昨日、21日はfete de la musique(音楽祭)の日。フランス全土でコンサートが開かれる。パリでも、あらゆるところで路上ライブが開催されるとのことで、僕もさっそく行ってきました。夕方の三時くらいに家に出て、St MichelからQuartier Latin(カルチェラタン)あたりを中心に夜の十一時過ぎまで、途中で適度に酒を入れつつ一人でぶらぶら。ものすごく面白かった。


路上ライブの種類は本当にさまざま。ロック、ジャズからヘビメタ、クラシック、各国の伝統音楽、マーチングドラム、ストリードダンスなどなど。それらが街中のいたるところで演奏を繰り広げるので、適当に歩いているだけでも約50メートルおきに新しい音楽に出会える。バンドがいるところには黒山の人だかりができている。夜になるにつれて人が溢れ出す。十時半を過ぎてようやく日が暮れたころにはみんな適度に酒も入っている状態で、車道にまで人が流れ込み、街は本格的にお祭りの様相を呈する。


日本のビジュアル系ロックバンドがすさまじい化粧をして叫びまくっている横で、民族衣装を着た韓国人のまじめそうなグループが伝統音楽を奏でていたり、一本の道を挟んで二つのロックグループが気合の入った演奏を繰り広げるそばを、大音量のスピーカーをリュックのように背負い、エレキギターで鼓膜が破れるほどのノイズをまき散らすお騒がせヤロウ三人組が走り回ったり、さらにノートルダム大聖堂の前では火吹き男が炎を吹きあげたりと、とにかくこの日のカルチェラタンは熱かった。


印象的だったのは、リュクサンブール公演のそばで演奏していたHeat and Dustというロックバンド、St Michelでパフォーマンスしていた、ヨーロッパ各地のチャンピョンを集めたというストリートダンスユニット、セーヌ川沿岸のマーチングドラムバンド、それからPont des arts(芸術橋)の上で演奏していたアボリジニのグループ。とくに、部族の衣装を着て、顔にも戦いの化粧をしたアボリジニのバンドの伝統音楽にあわせて、それまで観客だった黒人と白人の中年のカップルが踊り始めたときはなんだか感動してしまった。パリという街の文化の多様性を見たような気がした。


それにしても、こういう祭りを開催できてしまうのがフランスのえらいところ。街中が夜中まで大音量に包まれる、こんなことは日本ではなかなかできない。音楽祭の日は電車もバスも明け方まで運転するということで、国全体がこの祭りを応援している感じ。人生をしっかりと楽しみましょうよ、というフランスの大人の精神を垣間見たような気がしました。もちろん、経済効果もけっこうなものだろう。日本でも、どんどんこういうのをやればいいのに。いやー、とにかく面白かった。

今年の三月に作成した、フランス滞在中にやっておきたいことのリストの進行具合を検証する。


1. フランスを満喫する


a. フランス人との交流を増やす


日本にいたときに出会ったフランス人の友達を介して、フランス人だけの飲み会に参加。また、ムッシュが書いた自伝を読んだり、いっしょに別荘に遠足に出かけたりもした。日常的にフランス人と話すということはないが、最低限の接触は保っている。来月も、フランス人の友達と出かける予定がすでに入っている。


b. 現地メディアの情報を仕入れる


現地の新聞、雑誌を図書館でチェック、面白い記事がある場合は購入して熟読している。また、ときどきネットでFrance 2のニュースも視聴している。ロシアで自殺する老人が増えている、というLiberationの記事、ロンドンで開かれたG20での英米と仏独の対立、それから大学ストの一連の展開に特に興味を持つ。今後も同じペースで続けていく。


c. フランス文化遺産に触れる


すでにパリで演劇三本、映画一本を鑑賞、美術館にも数多く行っている。今週末はパリの音楽祭、来週はコンテンポラリーダンス、来週末はヴェルサイユとパリのジャズフェスティバルにも行く予定。パリの文化的インフラを満喫していると言えるだろう。 さらに、フランスを離れてモロッコへの一人旅も敢行した。


2. フランス的自由を定着させる


<目的>

フランスで生活する中で、自分の力で人生や社会を築き上げること、人にはその自由があることを学んだ。しかし、ここで学んだことが一過性のものになってしまう恐れがある。帰国して日本の日常に埋もれる中で、フランス的自由を忘れてしまう、それが今後の自分の人生に反映されなくなる可能性がある。どうすれば、フランスで学んだ「自由への意志」を定着させることができるのか?フランスの自由を、より大きな文脈に結びつけて理解することが効果的だと思われる。具体的には以下の三点になる。


a. フランスの歴史を学ぶ


フランス史概説、およびフランス革命、第二次世界大戦中のレジスタンス、五月革命に関する入門書を読了。フランスの歴史の基本的な流れを抑える。また、エマウスやカリタスといったフランスの慈善団体についても調べる。


b. フランスの文学・哲学を学ぶ


レヴィナスの「Totalite et infini」に強い影響を受ける。自由、および他者との出会いに関する論考は、これからの自分の財産になるだろう。帰国までにレヴィナスのもう一つの傑作、「Autrement qu’etre」も読む予定。また、A. Tomesの「le Sujet」によって、日本で考えてきた主体の問題に大きな枠組みが与えられる。その上で、個人の尊厳と他者の承認の関係性が改めて興味の対象になった。


c. フランスの社会問題を学ぶ


Debray、Ferry、Badiouの新作を通して、金融危機以降の世界に対するフランスの基本方針を探ってきた。資本主義というシステムそのものを疑問に付す彼らの考え方に興味を持つとともに、その現実的効力に若干の疑問を抱く。市場の効率を追求しながらも、そこからこぼれ落ちるひとたちへの目配りも忘れてはならない、そのジレンマの解消が今後の課題だと思われる。



今後の課題


いままでに学び、考えてきたことを分類し、それぞれに関するまとめを作る。

Alain Badiouの「L’Hypothese Communiste」を読みはじめる。Badiouはエコール・ノルマルの元教授。アガンベンやシジェクと並び、反ポストモダニストとして有名な哲学者。この本は、五月革命にも深くコミットした著者が今年の四月に出した新作。


プロブレマティック(問題意識)は面白い。金融危機が世界を混乱に陥れているにもかかわらず、人々は資本主義に固執し続けている。まるで資本主義以外の選択肢が存在しないかのようである。これは、共産主義の「挫折」が人々の意識にあまりにも深く刻まれているからだと思われる。それでは、共産主義の「挫折」とは一体なんだったのか?歴史上、共産主義に関してどのような実験が行われてきたのか?五月革命、中国の文化大革命、パリ・コミューンを通してこのことを検証してみよう、というのが本書の目的。


五月革命の分析まで読んだ。資本主義を「非理性的」と断言し、五月革命への「忠誠」を訴え、「理想」を持ち続ける「勇気」を要求する筆者の態度はあまりにも感情的。情緒的なフレーズを繰り返すばかりで理論的な裏づけがまったくない、というのが全体を通した印象。資本主義を排斥するのならば、具体的にどのようなシステムが望ましいと考えているのか?それが現在のシステムより優れていると、どのようにして判断するのか、その基準は何か?また、システムの移行は具体的にどうなされるべきなのか?といったことがまったく述べられていない。これでは、経済知識のない素人によるただの憂さ晴らしにすぎない。


Badiouの新作の対極に位置する本、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』(2008年版、新訳)を読み終える。いまから五十年近く前に発表された、リベラリズムの歴史的名著。現代にも通じる問題提起が数多くなされていて、五十年という歳月をまったく感じさせない。非常に面白い。特に、最低賃金や年金問題に関する論考は、まるで現在の日本を分析しているかのようである。資本主義というシステムや会社の存在意義への再考が求められている現在、この本を批判的に読むということ(無条件に賛成や反対するのではなく、自分の頭でしっかりと考えながら読むこと)は、非常に有意義であると思われる。


あとは、Debrayの「le Moment fraternite」も読み返している。

Theatre de la Huchetteにて、イオネスコの「授業(La Lecon)」を鑑賞。1950年代に発表された不条理劇、フランス文学史的にも重要な作品。フランス語のテキストを読み返してから劇場に向かう。数百人の箱に十数人の観客。


やはり、演劇は劇場で実際に見てみないと分からない。言語から意味を剥奪し、言語を音へと還元しようとするイオネスコの意図は、テキストからでも分かる。しかし、自分が発する言語によって逆に自分の主体性がおびやかされていく危うさや、理性による抑制を失った言葉の氾濫、また女生徒に襲いかかる言葉の暴力性は、実際の上演を見てみないとなかなか分からない。さらに、「ナイフ」という言葉による女生徒の刺殺と、老教授の性的な欲望の解放がパラレルというのも新たな発見。女生徒役の女優が女生徒というにはかなりベテランだったものの、俳優陣の演技もなかなかのもので、けっこう満足することができました。