パリも少しずつ暖かくなってきた。昼食を軽くすませて、午後から出かける。LaChapelleの写真展が面白そうだったので、パリ造幣局の美術館まで行ってみるが、入り口の長蛇の列を見て断念。そのままセーヌ河沿いをぶらぶらと散歩。途中で橋を渡り、ルーブル美術館の広場を横切って、トゥルリー公園に入る。少しだけ歩きつかれたので、噴水の前のベンチに座り、走り回る子供たちを眺める。


ルーブル美術館を背景にトゥルリー公園でひと休み、というのも、ひょっとしたら贅沢な時間なのかもしれない。日本にいる人たちからうらやましがられるようなひと時なのかもしれない。多くの人が、パリに対してあこがれを抱いている。雑誌のパリ特集、「アンティークとカフェはパリの文化」とか、「秘密のパリ観光案内」とかが、オシャレなパリのイメージを助長する。また、さまざまなアーティストが、パリの詩情を歌い上げてきた。


ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

われらの恋が流れる

わたしは思い出す

悩みのあとには楽しみが来ると(*)


ほんの五年位前の僕にとって、パリと言えばブラッサイ写真集、『夜のパリ』であり、あるいはエルスケンの写真集、『セーヌ左岸の恋』だった。ベルモンドが『勝手にしやがれ』のなかでつぶやいたセリフ、「パリは夜が美しい」も頭のなかで響いていたし、あるいは『ママと娼婦』のジャン=ピエール・レオーのように、サンジェルマン・デ・プレのドゥマゴでカフェを飲むのも夢だった。シャンゼリゼではジーン・セバーグがニューヨーク・ヘラルド・トリビューンを売っているはずだったし、ヴァンセンヌのカフェではアンナ・カリーナがマジソン・ダンスを踊っているはずだった。


ただ、実際にこうしてパリに住んでいると、ひとつひとつの出来事があまりにも生々しい現実で、イメージに漬かってばかりもいられない。現実のパリに住むということは、メトロのションベンくさい異臭を嗅ぐということであり、役所で怒鳴られてもへこたれないということであり、字幕や翻訳なしにフランス語で生きることなのだ。


*アポリネール、「ミラボー橋」、堀口大学訳


追記:上の文章とはまったく関係ないが、急に二つほど詩を思い出したので、書き留めておく。両方とも映画のなかで口ずさまれた詩。まずは『はなればなれに』に出てくるものから。



男も女も 君たちはどう扱われたのか

使い古されたやわらかな石だ

やつれ果てた君に

心が痛む


一握りの砂粒のような

いつも流れつづける血のような

いつも傷つく指のような君たち

私も君たちの同類だ



次に、テオ・アンゲロブロスの『永遠と一日』に出てくる、「言葉を買う詩人」のひとり言。



朝露に濡れた明けの明星が、
輝かしい太陽の到来を告げて、
晴れ渡った空を乱すものは、
霞も影もひとつもない。

やさしい風が吹き渡り、
見上げる顔を愛撫する。
魂の奥へささやくように。

人生は美しい。
そう、人生は美しい。