バッハのマタイ受難曲を聴きながらアムステルダム・ビールを飲んでいる。度数が若干高いということもあり、少し粘性がある。舌の上で転がすと、かすかな甘みが口の中にねっとりと広がる。


いま書いているプレゼンの内容について。エドガー・ポーの「リジェイア」という短編を分析している。リジェイアという名の美しく聡明な女性と結婚した語り手。しかしやがてリジェイラは病で亡くなってしまう。失意のなか、新しい女性と再婚した語り手、しかしリジェイラへの思いを断ち切れない彼は、その女性を心から愛することができない。やがて再婚した女性も病で亡くなってしまう。彼女の亡がらの前で夜を明かす語り手は、その死体が立ち上がり、彼のほうに向かって歩き出すのを目にする。そしてその死体の瞳は、まさしくリジェイラの瞳であった。


ここで問題になっているのが、先日も書いた不在の現前という問題。語り手にとって亡くなったリジェイラは、決して取り戻すことのできない存在、非現実的な女性である。しかし、リジェイラの物語を書くということを通して彼は、二度と触れることのできないリジェイラのイメージを目の前に現出させる。物語の冒頭で彼は書いている。「リジェイア!私の目の前に、もはや存在することのないこの女のイメージを出現させるには、この甘美な言葉さえあれば十分である。」


このようにして、彼はリジェイラの容姿を事細かに描写していく。しかし、どうしても彼が描写することのできないものがある。それが彼女の瞳。彼は書く。「彼女の瞳の表情!あぁ、言葉など、ここでは一切の意味を持たない。」


語り手は、リジェイラの瞳に関する描写が本当の彼女の瞳を表現していないと言っている。なぜならリジェイラの瞳は、言葉などでは表すことのできない深みを宿しているのだから。それでは、ここでの彼女の瞳の描写は無意味なものなのだろうか?そうではない。「言葉では表現し切れないリジェイラの瞳」と言うとき、たしかにそこにはリジェイラの瞳に関するダイレクトな描写は存在しない。しかし、「言葉では表現し切れないリジェイラの瞳」と言うことによって、読者は彼女の瞳の中に、言葉では決して追いつくことのできない彼女の核が眠っていることを知る。リジェイラの瞳を言葉によって表現することで、言葉ではたどり着けない彼女の本質が明らかになるのである。


世界は言葉では表現することができないもので溢れている。しかし、言葉では表現することのできない「何か」に言葉を与えることで、その「何か」の存在が明らかになるということはありうる。「言葉にできない愛」や「言い表すことのできない苦しみ」は、それが言葉にされない限りは無である。しかし、それが「言葉にできない愛」や「言い表すことのできない苦しみ」という言葉によって表現されたとき、そしてそれが相手に伝えられたとき、そのときはじめて、言葉では表現することのできない、しかし私やあなたのなかに確実に潜んでいる愛や苦しみの存在が明らかになる。「わたしは言葉にすることのできない愛情を抱いている」、あるいは「僕は言い表すことができない苦しみを抱えている」というメッセージを発することによって、我々はそこになんだかよくは分からないが、しかし決定的に重要な「何か」が存在していることを悟る。古代ギリシア人にとって真実とは「開示(ヴェールを脱ぐこと)」を意味していた。現前する言葉が言葉の向こう側にある領域を開示する、そのときそこには真実が宿っているのだろう。


自分の苦しみを誰かに分かってもらいたいと思うのは当然のこと。そして、その苦しみが大きければ大きいほど、それは言葉によって表すことができなくなるというのもまた事実。リストカットにしたって自殺未遂にしたって、結局は言い表すことのできない苦しみに形を与えようとする試み、そしてその苦しみの存在を他人に対して、そして何よりも自分自身に対して証明しようという企て。「私は苦しんでいる」と言ったところで誰もその苦しみの存在を信じてはくれないから、その苦しみを自分自身の身体の上に刻印する、そうすることでそれまで非現実的だった苦しみに形が与えられ、それが現実的な、認識可能なものとして現れてくる。


さて、相変わらずマタイ受難曲を聴いている。「恋愛とは相手が自分に対して欲望を抱くことを欲望すること」と言ったのはサルトルだったと思うが、これは恋愛に限らず、多くの場合に言えることだろう。自分が存在していることに対して一種の罪悪感を抱く、それはあまりにもありふれたこと。そして、そのような「存在していてはいけない自分」のことをそれでも欲してくれる誰かを求める、それもまた当然の心理。ひとは、自分の存在を欲望する他者を絶えず求め続けるし、また自分のことを欲する他者が誰もいなくなったとき、生はその根拠を失う。


課題が多すぎるとはいえ、仕事のしすぎだ。パリの冬空はあまりにも陰鬱、どうも気に食わない。

'08/12/07(夜)