寒くなるとの昨日の予報どおり、今朝は雪が降りました。昨日コートを買っておいてよかった。午後から外出。シャンゼリゼのvirgin recordで本を物色、その後カフェで論文のプロジェを少し練り、夕方からシャンゼリゼの映画館で『ALLWAYS 2、三丁目の夕日』を見る(日本映画フェスティバルの一環)。
まずは本屋の話から。実はきょう本屋の面展を見るまで、ル・クレジオが2008年度のノーベル文学賞を受賞したこと、知りませんでした。クレジオなんてもう過去の人だと思っていただけに、なんだか意外な感じ。あんまり詳しいことは知らないけど、たしかメキシコ文化なんかにも興味を持っていたはず。クロード・シモン以来二十数年ぶりのフランス人の受賞らしい。
その他、面展になっている本を中心にいろいろと売れ筋をチェックしてみました。どうやらフランスでいま流行っているテーマは「わたしとはだれ?」、もっと使い古された言葉で言えば「自分探し」ということらしい。実際、今日チェックした限りでも「わたしはどこにいるの?」や「ユリシーズ」(旅の中で自分と出会う、みたいな話)といったタイトルの本が平積みになっていました。そう言えば、今年のグランゼコールの小論文のテーマが「わたしとは何か」というお題で、本屋の受験用テクストの売り場にも「わたしという謎」といったタイトルのコーナーが設けられていたっけ。これだけ社会が複雑化し、さらに今回の金融危機みたいにちょっとしたことで世界中が同時に不安定な状況に陥ってしまう現代、あらためて人生とは何か?わたしとは何か?みたいな実存的なテーマが注目されているのかもしれない。社会からの借り物の「幸せ」ではもう間に合わなくなってきてるんだろうね。
ここで「わたし」というテーマについて簡単な復習。「わたし」という存在が重要な概念として意識されるようになったのは17世紀、デカルト以降。それ以前にも、例えばアウグスティヌスの『告白』などはあったのだが、それが哲学的なテーマとして前面に出てくるようになるのはやはりデカルト以降。デカルトが提出した「わたし」とは、「わたしは考える、だからわたしは存在する(コギト・エルゴ・スム)」という有名な一文からも明らかなように「考えるわたし」、つまり論理的に思考する主体としての「わたし」。
スピノザなどの例外はあったにせよ、18世紀から19世紀にかけて「わたし」とは基本的にこの思考する「わたし」だった。このようなデカルト的な「わたし」が覆されるのが19世紀末、そしてその中心人物がニーチェ、マルクス、フロイト。ニーチェについてはきちんと理解してないし、ちょっと難しいので飛ばす(たぶんドゥルーズあたりを読むと良く分かる)。マルクスのいう「わたし」とは下部構造、つまり社会構造によって規定されてしまう「わたし」。そこでは個人の精神は社会によってその存在のあり方を決定されてしまう。そして無意識の発見者、フロイト。論理的な思考の外部、つまり意識の光が届かない闇の部分が「わたし」のなかにはあるんだよ、だからデカルトが言うような「考えるわたし」が「わたし」のすべてではないんだよ、ということを指摘したのがこのひと。
さらに60年代以降には、構造主義というものが生まれてくる。構造主義というのもひとことで概括するのは難しいのだが、要するに「個人というものは社会構造の創造物に過ぎないんだよ。ある時代、ある場所に生れ落ちた『わたし』は、その時代、その場所に適合するようなものとしてみずからを形成していく。『わたし』とは『わたし』の周りにいる他者の物まねを通してつくり上げられていくものなんだから、本当の『わたし』なんて存在しないんだよ」といった感じのことだと思う。
ということで、本当の「わたし」なんていないんだよね、だから「自分探し」なんてしてみたって無駄なんだよね、というのがここ数十年の常識だったというふうに言うことができるだろう。ただ、ここにきて「そんなこと言ったって悩んだり苦しんだりしている『わたし』はいるし、幸せになりたいと思ってる『わたし』だっているんだよ。それに、いくら『わたし』は他者の鏡だ、とか言ってみたところで、周りにはいやなやつらだっていろいろいるし、人間関係のストレスはあるし、だからやっぱり本当の『わたし』みたいなもの、これが『わたし』なんだって思えるものは欲しいよ」という素直な願いが出てきたのだろう。実際、『わたしという謎』というグランゼコールの受験対策の本とかをめくってみても、そこで扱われているのは構造主義などではなくてアウグスティヌスやミシェル・レリスが書いた自伝文学。社会の側から出発してその一構成要素としての「わたし」を定義していくというそれまでの哲学的な方法の代わりに、ある特定の「わたし」の具体的な生の軌跡を分析することでそれを普遍的なものにまで拡張していこう、というアプローチのほうが現代にあっているということなのだろう。で、そうするとこれは哲学ではなくて完全に文学のテリトリーになってくるわけです。(そう言えば、寺山修司が『私という謎』という本を書いていたな。)
次。『ALWAYS 2』について。なんかあまりにもできすぎな感じがしてちょっと引いてしまう部分もあったけれど、それでもときどき感動した。あと、小雪がきれいでした。日本にいる彼女のことを思い出して、会いたくなりました。
映画館を出るとすでに外は真っ暗。クリスマスのイリュミネーションで飾られたシャンゼリゼを一人で歩く。昨日の青いエッフェル塔といい今日のシャンゼリゼといい、一人で眺めるのもどうなの?といった感じのパリの冬の夜。そのうち絶対に彼女と戻ってこよう、と思いました。
'08/11/24(夜)