オペラの近くのカフェです。今日は午前中、家で発表用原稿のチェックをし、その後サン・ラザールのカフェで最終チェック、さらに日本にいるフランス人の教授(マダム、先生というよりは友達)に送るメールの下書き。ずっと頭を使っていたのでちょっとフラフラしながら街を歩き、いま17時半でこれから夕食。


今回の発表用原稿の執筆から学んだこと。まずはプランを練る段階でがちがちに内容を固めること。そしてその後いっきに執筆して、手直しをしていく中で形を整えていく。結局いちばん大切なのは下ごしらえの段階、手元のレポート用紙にプラン、必要な引用等を書き出し、あとは鍋で炒めるだけという状態にしてから書きはじめること。逆に言えば、これができていない段階で書きはじめようとしては絶対にいけない。とにかく必要なのは論理的な統一性、論理的でないものに全く意味はない。


日本のいまの教育に最も欠けているのが、この論理的に考えてそれを他人が分かる形で伝える、という能力の育成なのだと思う。昨日、マドレーヌのそばの三越に行ってみたら日本人の高校生くらいの集団ががやがやとしていて、そのだらしない姿を見ているうちになんとなく思った。中学生くらいから二十分くらいの口頭発表をやらせる、そういうことも必要なのではないか。学校教育というものが社会という公の場で生きていくための基礎力を習得させる機関なのだとしたら、そこで最も基本となる能力、つまり仲間うち以外の人に対して自分の考えをきちんと伝える、ということを教えるのは当然のことだと思う。そして、社会のコードとして最も一般的なのが論理性なのだとしたら、論理的に自分の意見を表現する、ということを学ぶというのは不可欠なのではないか。おそらく、これを最も手っ取り早く身につける方法が数学の証明問題と口頭発表。科目によっては中間試験が口頭発表、というのがあってもいいと思う。


ただ、こういうことを言っていると問題になるのが教師の質。つまり、教師自身が口頭発表というのをしたことがないので、どういう風に教えたらいいのか全く分からない、ということ。そこで提案、というかフランスのやり方の紹介。大学院を卒業するときに教職を取るのを半義務化して、大学院を卒業した人をどんどん中学や高校に派遣すればいい。大学院を卒業するためには口頭発表と論文執筆は避けては通れない。つまり、院生は他人に対して論理的に物事を伝える、という能力を普通ならば身につけているはずである。だから、あとは教育現場でのコツみたいなものを在学中に身につけさせてやれば、教師としてやっていくことはできると思う。これは院生にとっても一種の保険として機能することになるだろう。大体、教師になる者が必ずしも児童心理学とかを何年も勉強しなければならないとも思えないし。そもそも日本は、中学や高校の教員に「人格形成」みたいなものを期待しすぎている。大学生でも塾の講師として働いている人はいくらでもいるんだから、そういうものの延長線上で学校に入っていってもいいと思う。それに、「思いやり」とか「やさしさ」とかいうのは、結局は他者への想像力の問題で、口頭発表というのはまさにその他者に理解させる、つまり他者の頭の中を想像する力が求められるわけだから、変に「思いやり」とかいう言葉だけを唱えるよりも、口頭発表をやらせたほうが「思いやり」はよほど身につくと思う。


夕食後。オペラのカフェで上記の文章を書いた後、近くにあるサッポロラーメンという日本料理屋でカツ丼を食べてきました。11月7日付けの朝日新聞があったので、約一ヶ月半ぶりに紙の新聞に目を通す。一面のトップが、トヨタの今年度の収益が七割減という記事。自動車業界は危機的な状況で、半導体の見通しも悪く、さらに日銀も金利を引き下げた、等々。とにかく、日本全体、さらに世界全体が破滅へと向かっているような記事ばかりでした。そんな中で気になったことがひとつ。それは、誰もこれからのビジョンを明確に掲げていないこと。一部の人々はやみくもに悲観にくれ、また一部の人々は「なんとかなるだろう」と楽観視をつづける。現実をきちんと見つめた上で、長期的な視野をもってこれから目指す具体的なビジョンを示している人が誰もいない、そんな印象を今日の新聞からは受けました。現状が悪いのは分かっている、ただどうすればいいのか全く分からない、だからとりあえず短期的に尻拭いをしてその場をごまかす、そんなやるせなさが日本中を包んでいるのかな、そんな感じがしました。こういうときに危険なのが、ひとりでも具体的なビジョンを示せる人が出てくると、全員が盲目的にその人に付いて行ってしまうこと。第一次大戦後のドイツとまでは言わないけれど、ひとりが掲げたビジョンが、よく検討されないまま雰囲気だけで採用されてしまう可能性がある。本来ならば、それぞれがそれぞれの意見を持ち、それらを現実に対する実効性を常に念頭に置きながら弁証法的に、しかも短期間でプランとして高めていく、それが理想なのだが、現状はそこからは程遠いのかな、という気がした。


それから、「首相の考えが分からない、と省庁が言っている」というような記事もあったが、これはひとつの組織としては致命的な問題だと思う。組織のトップが明確なビジョンを示していないというのは、そのトップのコミュニケーション能力の欠如、あるいは怠惰以外の何ものでもない。賛同するか反発するかは別として、組織のトップが自分の考えを構成員全員にきちんと伝える、構成員が理解するようなやり方で自分の意見を提示する、そのことによって、組織の各構成員も組織に対して真剣にコミットし、組織が一丸となってみずからの将来を切り開いていくことができるのに。


日本は、みずからの将来をみずからの力で戦略的に切り開いていく、という能力に少し欠ける部分がある。これは東洋と西洋の違いとも関係してくるのかもしれない。つまり、西洋人だったら対立があったときに自分を変えることなく、相手を打ち負かそうとする。科学によって自然を征服してきたように。ところが東洋、特に日本の場合は、対立があったときに相手を変えることなく、自分がその状況に順応して対立を解消しようとする。たとえば賃金があまりにも安すぎる場合。フランスならばまずストライキをする。労働者の欲望をかなえるためにストによって会社側を屈服させようとする、ところが会社だってそんなに簡単にストには屈しない、ストは長引く、社会機能が麻痺する、みんな苦しむ、状況はますます悪くなる。日本の場合、賃金が安ければその分がんばって働こうとする。がんばってがんばって働き続けて、それでも収入が少ないからさらにがんばって、やがて鬱になって、最後には倒れてしまう。


与えられた枠組みの中でいかに効率よく成果を出していくか、ということにかけては、日本人はおそらく世界でもかなり優秀なひとびとなのだろう。だが、枠組みそのものを変えよう、あるいは枠組みがないところからいかにして枠組みを作り出していくか、ということに関しては、日本人は非常に手際が悪い。それは、ハーバード大学のマイケル・ポーターと一橋大学の竹内弘高が書いた論文、「日本モデルの限界と再生への道筋」のなかの次の言葉に集約されている。「日本の相対的な弱さは、計画、管理、金融、先端物流管理、販売、受注加工、消費者情報、アフターサービスなどの、生産以外の領域で顕著だった(・・・)オペレーション効率(作業効率)は、企業が優れたパフォーマンスを実現するための二つある方法のひとつであるにすぎない。もうひとつは、ユニークな製品やサービスによって競争をするための“戦略”である(・・・)日本企業は、オペレーション効率面での競争に必要とされる改善を積み重ねていく面では勝っているが、より広範で革新的な戦略は持っていない企業が多い」(『カルロス・ゴーン経営を語る』より孫引き)。


今日のように社会の枠組みそのものがぐらついているような状況にあっては、現状を正面から分析すること、そして各人が自分の考えを他人が分かるような形で提示し、開かれた議論を重ねていくこと、そのうえで長期的なビジョン、あるいは戦略を提示すること、それ以外にないと思う。そのためにも、国民の一人ひとりが論理的に自分の考えを述べる能力を実につけるというのは、必要なことだと思うのです。

 

'08/11/10(午前)