昨日のオリエンタリズムの授業は、アメリカからオリエンタリズムの世界的権威の学者を招いてのセミナーとなった。なかなか面白かったので、以下そのまとめと簡単な感想。
1978年に発表されたエドワード・サイードの『オリエンタリズム』から、オリエンタリズム研究、ポストコロニアル研究ははじまる。それまで地域研究(Area Studies)というものはあったが、オリエンタリズムという形で研究対象となることはなかった。
ポストコロニアルの流れは、やがてフェミニズムやブラックスタディー(Black Studies)といった研究領域を生み出していく。つまり、西洋文明において中心的な役割を担ってきた「われわれ」(西洋の白人男性)に対する「他者」が研究対象としてクローズアップされるようになるわけである。
アメリカでポストコロニアル、フェミニズム、ブラックスタディーといったマイノリティ研究が盛んになった要因の一つに、大学の奨学金とのかかわりがある。大学での多様性を促進するためにアメリカでは積極的差別(positive discrimination)という政策が取られていた。つまり、マイノリティに属する学生のために特別枠を設けて、マイノリティを積極的に大学に入学させることで、さまざまなバックグラウンドをもつ学生を取り込んでいこうとしたわけである。このような流れの中で、マイノリティ研究に対しては比較的奨学金が下りやすい、という事態が生じた。
現在アメリカでは、ポストコロニアル研究はすでにその役目を終えている。その代わりに生まれてきたのが被害者学(Victimologie)である。被害者学には、同性愛学(Queer Studies)、男性学(Male Studies)、性同一性学(Transgender Studies)、さらに肥満学(Fat Studies)などが含まれる。社会的なプレッシャーを受けたこのような人々が、いかにして社会の中で生き生きと生活していけるのか、を考えていくのが被害者学である。ただ、男性学については少し説明が必要かもしれない。
ポストコロニアリスムは、フランスの思想家、フーコーやデリダ、ラカンの影響を強く受けている。特にデリダの、すべてはテキストである、という考え方は、その後のマイノリティ研究の根幹となっている。文学作品や芸術作品と同様に、そこでは個人の体験でさえも読み取られるべきテキストとして扱われる。そのなかで、たとえ西洋の白人男性であっても、その個人としての体験をテキストとして解釈することによって、彼にかかっているさまざまな社会的抑圧が明らかになることが分かってきたのである。つまり、西洋の男性もまた社会の被害者である、ということが認識されるようになったわけである。
ただ、ポストコロニアル研究について言えば、そこに問題がなかったわけではない。大学におけるポストコロニアル研究は、常に西洋から見た他者、という方向によって進められてきた。たとえばエジプト研究とは、あくまでも西洋から見たエジプトを研究することであり、エジプトの内部からエジプトについて研究することではない、つまり、そこでのまなざしのベクトルは常に一方向に限定されているのである。そのため、エジプト研究科を設けている学部がエジプト語を学ぶコースを併置していない、というようなことがアメリカでは多々あったようである。
ここまでが昨日の授業の簡単なまとめ。つぎに僕の感想。被害者学(この日本語訳はあまりよくないが、他に適当な訳が思いつかないので、このまま使っていく)という考え方は非常に面白い。肥満学というのはいかにもアメリカならでは。日本だったら、これから高齢者学というものが必要になってくるだろう。
介護や孤独死をはじめとして、高齢者問題というのはこれからの日本で、いや、すでに現段階において非常に重要な社会問題である。現在の日本では、高齢者は社会の生産ラインから外れたひとたち、非生産的なマイノリティとしてしか認識されていないように思われる。そして、そのようなマイノリティたちをそれでも養っていかなければならないというのが社会が抱える大きな悩み、といったところであろう。だが、果たしてマイノリティはお荷物でしかないのだろうか?
1970年代、アメリカの大学がなぜ積極的差別を行ったのかについて考えてみよう。彼らの考え方の根幹には、多様性こそが成長の鍵である、という信念があるように思われる。さまざまなバックグラウンドをもった者たちが生み出す既成概念にとらわれないアイデアが広く共有されたとき、組織は大きく躍進していく。ダイムラークライスラーのCEO、ユルゲン・シュレンプは次のように語る。「世界には数多くの文化があります。そこからどれほどのアイデアが生まれてくるかを考えると、これはすごいことだというほかありませんね。」「課題ははっきりしています。知識をできるだけ広く共有すること。しかし、それをはばむ文化の壁があります。この壁をこわすのは容易なことではありません」(『世界企業のカリスマたち』, ジェフリー・ガーテン, 日経ビジネス人文庫, p.109, p.110)。
日本に話を戻す。現在の日本では、高齢者たちは社会の生産ラインから除外された人々、という扱いしか受けていない。しかしそこには、実は隠された知恵、「われわれ」が必要としている知識が眠っているはずである。大切なのは高齢者を「われわれ」が世話をしなければならない「弱者」として断定するのではなく、アメリカがマイノリティの中に隠されたアイデアを見出そうとしたように、高齢者を社会に必要な構成員として取り込むということだろう。もちろんそれは、高齢者がふたたび会社勤めをするということではない。重要なのは、彼・彼女たちがもつ知識を広く共有すること、言い換えれば知識にアクセスするためのシステムを構築し、またそのシステムが有効に機能するような市場を開拓するということであろう。
まだあまりにも抽象的すぎてよく分からないが、しかし例えば年間三万人もの自殺者がいる日本の中で、もちろん時代的な格差はあるにせよ、80歳や90歳まで自殺もせずに行きぬいてきたというのは、それだけでも教えられる部分があると思う。「われわれ」が高齢者に絶対にかなわないのは、彼・彼女たちがその年になるまで生き抜いてきた、ということである。デリダが言うように、個人の人生でさえもテキストであるのだとすれば、彼・彼女たちの人生というテキストを広くアクセス可能なものにするということ、それで収益を上げていくということ、それも必要なことだと思う。
'08/11/01(午前)