7時半に起床、シャワーを浴びて朝食を取って8時半に家を出る。9時半に大学に着き、図書館でメール、ネットチェック。ネットでの調べものに意外と時間がかかり、修論の書き方の本(フランス語、約200ページ)にとりかかれたのは10時半から。その後、14時から17時までの授業、および昼食の15分、授業後のコーヒータイム約10分を除き、図書館が閉まる19時までずっとその本を読み続ける。帰りのバスの中でも読み続け、なんとか今日中に読み終えることができた。現在21時。夕食を食べ終え、ようやく一息ついたところ。
今日の感想。まずは、フランス語のキャパシティーの限界を超えてしまったということ。午前中から三時間半ぶっとおしでフランス語の本を読み続け、その後ほとんど休みを入れずに授業に向かったため、脳みそのフランス語の領域があまりにも疲弊してしまい、授業中の教授のフランス語を全くといっていいほど理解できなかった。それでも重要な情報だけは一応インプットすることができたので、まあ特に問題はないのだけれど、それでもやはり授業が終わった後にはどっと疲れが出た。ちなみに、どんなに疲れていても外国語の授業にそれなりに対応できるという能力はICUの四年間の賜物。
つぎ。修論の書き方の本を読んで思ったことを二つ。まずはビブリオ(参考文献一覧)の重要性。日本だと、参考文献は最後に適当につけておけばいいんだろ、くらいの認識しかないが、この本を読む限りビブリオというのは恐ろしく大切。ビブリオの充実度によって書き手の理解度というのは大体分かってしまうものだし、また外国人留学生にとって、ビブリオは自分を売り込む絶好の機会でもある。なぜならビブリオは、書き方のルールさえ知っていれば完璧なものを作れるから。(ネイディブとの差が生まれにくい。)
二つ目。論理的思考の大切さ。もともと理工学部に在籍していたということもあり、ICUに入ったばかりの頃は、たとえ文学のレポートでも論理的一貫性性というものをいちばん大切にしていた。実際、当時のレポートでは、バンヴェニストを使いつつ言表の主体と言表行為の主体の関係を図式化して添付したりと、けっこう理系的なスタイルで課題をこなしていたようにも思う。ところが大学院に入って専門的な論文などを読みはじめ、また学会などに行きはじめると、どうも「分かりやすさ」というものが必ずしもポジティブな要素としてとらえられていない、ということに気づきはじめる。たまに一貫性のある「分かりやすい」発表があっても、「あまりにもすっきりしてて面白くないよね」という批判がされたりするのである。そのあたりから僕の中で迷いが生じはじめた。つまり、「どうやら文系の世界ではちょっと分かりにくいくらいの論文のほうが評価が高いらしい」というふうに。
学問の世界のこういった問題については、『知の欺瞞』という本を書いた人(名前は忘れた)が徹底的に皮肉っているので、そちらを参照してください。この人は、学会でもてはやされている思想家の引用をでたらめに、しかしもっともらしく引用した論文、つまり内容的にはまったく無意味なのだが、一見するといかにも難解で高尚なふうに見える論文を意図的に作成し、学会誌に送りつけた。この論文がそのままボツになれば何も問題はなかったのだけれど、その論文はなんと論文審査を通過し、学会誌で発表されてしまう。論文が発表された後でこの人は自分の論文が内容的に全くでたらめなものであることを公表し、いかに学問の世界が適当か、いかに、自分たちでさえも分かっていないことをえらそうに語っているかということを徹底的に皮肉ったのである。(なお、このことに関しては内田樹が『ためらいの論理学』みたいなタイトルの本の中で触れています。「よく分からないけどなんかすごそう」っていう感覚もけっこう大切なんだよ、って感じのスタンスだったと思う。)
話を元に戻す。きょう読んだ本が繰り返し強調しているのが、論理的一貫性の大切さ。特に修論の場合、学生がもっている科学的思考能力、また課題に関する知識を測るのが目的なので、論理的に書くことの重要性はますます高くなってくる。ICUで学んだように、何よりも論理性を大切にすること、そのためにもプランの段階で徹底的に考え抜くこと、そこらへんがこれからの仕事のポイントになってくる。
明日の予定。7時に起床、8時に家を出て9時に大学に到着。図書館でメール、ネットチェックをした後、10時からヘッセに関する発表の準備。文献にざっと目を通し、プランを作る。昼はポンピドゥーのFLUNCHにでも行こう。たまにはしっかりしたものを食べないと。そのついでに来月分の定期も購入。(往復で約二時間?)それから大学に戻り、19時まで図書館で発表の準備の続き。とりあえずそんな感じ。おやすみなさい。
'08/10/28(夜)