昨日はフランス人の友達と夕食。レストランに行く前に、モンマルトルを案内してもらう。ピカソたちが住んでいたアトリエやエリック・サティが暮らしていたアパート、『アメリ』の舞台となった食品店などなど。食事のあと、山の上からパリの夜景を眺めたのですが(モンマルトルからはパリが一望できるので)、東京と比べるとパリはやはり小さい・・・二年位前、六本木の森美術館でビル・ヴィオラの展覧会を見た後、そのまま展望台に上がって東京の夜景を一緒に眺めたことがあったけれど、あのときの景色に比べたら昨日のパリはあまりにも寂しい。(もちろん、シチュエーションがまったく違うということもあるが。)
昨日の会話のポイント。まずは仕事観について。フランス人はやはり、仕事は苦痛、ヴァカンスこそが「本当の人生」と思っているらしい。1936年にヴァカンスという制度が導入されて以来、フランス人はいかにしてヴァカンスを死守するか、そして「本当の人生」を充実させるかということを考え続けているとのこと。
次に、1968年の意義について。まずはフランス人の友達の見解から。68年の五月革命は、フランス社会を強烈に変革した。それは、女性の社会進出、経済的自立などにも見て取ることができる。68年以前は、「女性は家にいるべき」という考え方が支配的だった。しかし68年以降、女性はどんどん社会へと進出していく。そうして女性は独立を獲得した。現在では、結婚という制度すらも崩壊しかかっている。男性、女性を問わず、それぞれが独立して生活していこうとしているのである・・・
以前、ICUの授業で「甘え」というのはポジティブな概念か、ネガティブな概念か、というアンケートが行われたことがある。結果は、大多数の生徒が「ポジティブでもありネガティブでもある」と答えた。たしかにずっと甘えっぱなしなのはよくないけど、でも恋人どうしで甘えられる関係っていうのも素敵なんじゃないの?って。
村上春樹がどっかの小説の中で「僕たちは不完全な存在なんだ。お互いに迷惑を掛け合って生きているんだから、小さなことは気にしなくていいよ」みたいなことを書いていたような気がする。その通りだよな、と僕も思う。
内田樹氏は、自身のブログ の中でこんなことを書いている。「家族において「対等」ということはありえない。どれほど知的にも情緒的にも「対等」な夫婦においても、毎日の生活の中では、どちらか余裕のある方が相手を配慮し、気づかい、支え、激励し、余裕のない方がそのような支援を受ける側にまわるということは避けがたい。もっとも安定的な家族とは、役割が固定している家族ではなく、むしろ「気づかう人間」と「気づかわれる人間」が局面ごとに絶えず入れ替わるような流動性のある家族だろうと私は考えている。」
フランス人の友達の見解に戻る。女性の社会進出には僕も賛成である。特に日本の場合、女性の妊娠、出産に対する社会的なサポートがあまりにも遅れているので、そこらへんのことをシステムとしてきっちりと考えていくのは急務であるとも思う。ただ、この友達の意見の背後ある、それぞれが独立して生きていくことこそが幸せなんだ、という考え方には違和感を覚える。ここらへんのことについては内田樹氏が詳しく書いている ので、そちらを参照していただきたいのだが、けっきょく言いたいことは、「俺たちは人間なんだよ。たまには疲れるし愚痴だって言いたくなるよ。そんなときにずっとそばにいてくれる人がいるならば、それってすごく素敵なことなんじゃないの?自分の弱さを自分の力だけで乗り越えていくことが必ずしもえらいことだとは思わないよ」ということ。
それから、フランス人と食事をしていて思うこと。彼らは「ハメ」をはずすということがあるのだろうか。これは、僕の周りにいるフランス人がたまたまみんなまじめ、ということだけなのかもしれない。ただ、彼らは酒を飲むときでも(というか、そもそも酒をあまり飲まない)、とてもキチンとしていようとする傾向がある。
二十歳くらいのとき、某古本チェーン最大手の店舗で半年ほどバイトをしていたことがある。そのときにその会社の社長と飲む機会があったのだが、その社長が言っていたことを最近ときどき思い出す。それは、「馬鹿になれないやつはダメだよな」ということ。
別に、自分の倫理観やモラルに反することを無理やりする必要はない。ただ、酒でも飲んでちょっとグデングデンになりながらとりとめもなくいろんなことを話していくというのも、個人的には大好き。四十代とか五十代くらいの、社会の中でバリバリに働いている人の話を酒を飲みながら聞くのが好きで、それは非常に日本的な習慣なのかもしれないけれど、その日本的な習慣というが僕にはとても心地いい。
'08/10/23(昼)