外人として暮らしていて実感する、コミュニケーションの場における権力闘争について。「外人」という言葉が禁止用語なのは知っているが、ここで暮らしていると自分のことを「外国人」というよりも「外人」として認識することのほうが多いので、あえてこの言葉を使います。
例えば先日、携帯電話を買いに携帯ショップへ行ったときのこと。店員はアフリカ系の男性と、おそらくスペイン系の女性。こちらが契約の仕方やプランの違いを尋ねると、向こうはなまりの強い早口のフランス語で一気に説明しはじめる。当然こちらは何を言っているのかよく分からない。分からないから何回か繰り返し聞いていると、あちらは明らかに哀れみの表情を浮かべ、まるで飲み込みの悪い子供に数の数え方でも教えるように、しかし説明のスピードは変えることなく、声だけを大きくして説明を繰り返し、最後にはこちらの了承も得ずに契約を進めていこうとする。「この子には契約の内容を理解するだけの能力がないから、代わりに私たちがいちばんいい方法を選んであげる」とでも言うように。
人と人とがコミュニケーションをはかる場合、そこには必ずある種の権力関係が生まれる。今回の携帯電話の例で言えば、フランスという国においてフランス語のネイティブとフランス語のノン・ネイティブとが話す場合、フランス語のネイティブのほうが権力関係の優位に立つということを示している。例えば、僕がしたのと同じ質問を同じ回数だけフランス語のネイティブがしたと仮定した場合、果たして店員は契約を勝手に進めようとしただろうか。フランス語のネイティブたちの発言を理解できなかった時点で、僕はこの権力闘争の敗者になった。強者は敗者に同情し、その「親切心」からいちばんいいように物事を進めて「あげる」。
逆の例。週末にちょっと旅行でもしようと思い、電話でホテルの空き情報を聞いたときのこと。会話はすべて英語、ホテルの従業員はあまり英語が得意ではない様子。やり取り自体は簡単なものだったのだが、相手があまり英語を話せないようなので、こちらはできるだけゆっくりと、丁寧に話す。相手は少しだけあせっている様子。こちらが部屋の料金などを確認すると、「YE S YES HAHAHA…」と意味のない笑い声を返してくる。この場合、ホテルの予約という、英語で話すことが一般的とされる状況において、英語が流暢なものと英語が苦手なものが話した場合、英語が流暢なもののほうがが権力闘争に勝利するということを示している。明らかに電話の相手は動揺していたし、逆に僕のほうは落ち着いてゆっくりと話して「あげる」ことができた。
外人として海外に暮らすことのいちばんの困難はおそらくここにある。言葉が流暢でないことは分かり切っている。なにせこちらは外人なんだから。ただ、言葉が流暢でないということが権力闘争における敗北の常態化につながり、そして勝者から敗者に向けられるいらだちや哀れみ、あるいはコミュニケーションの一方的な断絶が、今度は敗者の側の自信喪失や悲壮感を生み出すことが問題なのだ。発言の正当性はその内容に由来するのではない。権力闘争の勝者の発言こそが、常に「正しい」発言として認められてしまうのである。
ここで、これまでの僕の経験に基づく、手っ取り早く外人と対等なコミュニケーションを取る方法。1)お互いにとっての外国語で話す(日本人とフランス人が英語で話すとか)、2)外人の側の母語で話す(日本でフランス人と日本人がフランス語で話すとか)。つまり、権力闘争の優劣を最初から無効にしてしまうか、あるいは権力闘争の優劣を地の利によって相殺してしまうわけである。
‘08/10/20(夜)